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七 大樹は枯らす(1)

(カテゴリ:背水の章

項王の雷鳴のごとき咆哮に打たれて、兵卒たちは声も発さず彼の命に応じて動いた。

城内の者たちは、何事が起るのかと固唾を飲んで見守った。
兵卒たちが、剣を抜き放った。
兵卒に取り囲まれた民の群れは、恐怖に打ち震えていた。彼らは、ただ項王に命じられて糧食を前線まで運び込まされて来ただけであった。それが、なぜこのような目に会うのであるか。一体何の罪があるのかを、軍は一切語ることもしなかった。
漢王たちは、恐るべき光景を眼下に見た。
「ぐあっ、、、!」
「あっ、、、!」
楚の兵卒たちが、自国の民を次々に手に掛けていった。
彼らが振るう剣の刃先に、老者が、子の母が、幼い童子が、ばたばたと倒れていった。
城内の者たちは、敵のあまりに異常な行為に戦慄して、眼前に迫った敵に矢を射掛けることも忘れて呆然と眺めるばかりであった。
「、、、項羽、何のつもりだ。」
漢王は、楼閣の上で不審にうなった。
張良は、首を横に振るばかりであった。
陳平は、眼下の殺戮をきっと睨んで、言った。
「項羽!、、、我らの情に、漬け込もうとするか。自分の民を我らの前で殺めて、見兼ねた我らを引きずり出そうという魂胆、、、いけません、この挑発に、乗ってはなりません!」
陳平はそう評した後、足早に楼閣から駆け降りて行った。守備する将兵たちに、うかと応戦するでないことを厳命しなければならなかった。漢軍の将たちは、みな項王と同じ楚人であった。陳平は、項王が自分の母国である楚の民を殺してみせることで、漢の急所を突いて来たと恐れた。
漢王は、殺戮を指令する項王を遠くに見据えた。
「― 勝つためには、どんなことでもする。」
項王は、騅の上で微動だにしていなかった。
自分の勝利のために、人の命を食らう。
大樹が天に届くまで育つために、地下に這いつくばる草木の養気を、ことごとく吸い尽くして枯らしてしまう。
大樹とは、天に選ばれた英雄。天に選ばれない数多の民草を、捨てて省みない。
漢王は、低い声でつぶやいた。
「それが、俺とお前であるか―」


殺戮は、次の日もまた次の日も、繰り返された。
項王が命じた民を殺す方法は、殊更にむごいものであった。
首を斬って、一撃に止めを刺すことはしなかった。
ある老人は、胸を切り開かれた。
女は、片腕を切り取られた。
幼童は、足を断ち切られた。
城内を守備する将兵たちは、目を覆った。
「出てはならぬ。決して、助けに出てはならぬぞ―」
陳平は、各々の部署を叱咤して回った。
彼は、弩兵に命じて城外の楚兵を射殺せと命じた。
しかし、弩兵の放った矢の狙いは、ことごとく的を外してしまった。
敵は、わざと民を前面に出して処刑を行なっていた。矢を正しく射掛ければ、まず民に当ってしまう。弩兵たちの手は、無意識のうちに照準をずらしてしまった。
「ちいっ、、、!兵卒どもめが、今さら殺すのが怖いのか!」
陳平は地団駄を踏んで、罵った。
いま彼の後ろには、中尉の周昌と御史大夫の周苛がいた。彼ら両名は、漢王の沛での挙兵以来ずっと付き従って来た、漢王の股肱たちであった。
周苛は、陳平に言った。
「監軍、、、あまり兵卒のことを、罵るでない。」
陳平は、振り向いて周苛に言った。
「今は、最も大事な時なのだ!、、、情に足を取られていることは、許されない。お主は漢の要職にありながら、そのようなことも分からぬのかっ!」
周苛は、周昌と目を合わせた。
周昌は、黙って目で合図をした。
(― このことを、監軍に伝えるべきでない。)
周苛と周昌は、思った。
周昌の配下に割り当てられていた兵卒が、夜間ひそかに斬られた民を城内に運び込んで介抱していたことを、彼らは知った。
民の中には、まだ息絶えていなかった者があった。無残に手を斬られ胸を裂かれても、手当てを行なえば命だけは永らえることができた。兵卒の中に、命を賭してひそかに虐殺の現場に赴く集団が現れたことを、周昌は知った。
それは、漢軍に組み込まれていた墨家の者たちであった。彼らは守るために戦うが、眼前で死にかけている命を放置するのは、彼らの信条から耐えられなかった。墨家の者たちは、民を救助した後で、上司の周昌に告げてその罪を問うた。
周昌は、いとこの周苛に相談した。周苛は御史大夫で、法刑を司る最高職であった。
周苛は、周昌に言った。
「― 敵とは戦うが、民は救えるものならば救わなければならない、、、もはや、何も言うな。」
周苛は、陳平のように昼も夜も冷酷になり切れなかった。彼もまた、もとは沛の片々たる小吏に過ぎない身であった。昼間は漢帝国の官として敵の死を笑わなければならなかったが、日が落ちた後に無辜の民の命を救うことを、ついに止めることができなかった。
今日の殺戮でも、日が落ちた後に密かに城外で作業が行なわれた。
「死なせてください、、、おお、もう死なせてください―」
苦悶のうめき声が聞こえる中、命ある者たちを励ましながら、水を飲ませる者たちがあった。
彼ら墨家の者たちの情は、何も特別な宗教ではなかった。
普段は人間たちが利害とか自己愛とかで忘れ去っている情愛を、彼らはそのままに保っているだけのことであった。彼らは、殺伐と戦う兵卒たちが隠している心中の、代弁者なのであった。
「まだ、助かる、、、安心せよ!」
救う者の激励に、一人の老いた民は莞爾(にこり)とした。
その、夜半。
滎陽の城内から、火の手が挙がった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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