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七 大樹は枯らす(2)

(カテゴリ:背水の章

項王は、待ち構えていた。

彼は、滎陽の城内から上がった火の手を見て、大いに叫んだ。
「― 成った!」
彼は騅にうちまたがって、馬上から配下の兵を叱咤した。
「あそこだ、、、進め!」
先頭を進む項王を錐の頂点として、歩騎の精鋭がいざ突破せんと急襲した。
鉄壁の要塞は、郭(かく。外城)を周囲にしつらえて、郭の外面には要所に馬面(ばめん。突出部)、関城(かんじょう。出城)を置いて死角を防いでいた。敵が攻め寄せる前には深い壕(ごう。からほり)が掘り抜かれて進撃を塞ぎ、そこに火を通すことも水を流すことも臨機応変の仕掛けが施されていた。唯一の急所といえば城内に糧食を運ぶ甬道との連結点であったが、甬道には最も堅い工事と厳重な防衛上の注意が集中していたことは、言うまでもない。滎陽城は、築城技術の粋を集めた要塞であった。墨家の工匠たちが、要塞の守りを完璧なものまでに仕上げていた。この要塞を力で陥とすことは、誰にもできなかった。誰にも、できるはずがなかった。
攻め寄せた項王の兵に、城の中から無数の矢が飛んで来た。
「夜だ、、、正確に、射ることは、できぬ!」
項王は、ひるまず兵馬の先頭に立って、進撃した。
矢を避けて進んだ先の郭から、正体不明の液体が弾き飛ばされて来た。
項王は、頭上に降り注いだ液体の匂いを嗅いだ。
油であった。
直後に、打ち込まれる矢は、火矢に変わった。
彼に従う歩騎たちの体に、次々に火が点いた。
「走れ。走って、火を吹き飛ばせ!」
項王は、火に焼かれてのた打ち回る者どもを置き去りにして、目的に向けて一散に進んだ。
城内から火が上がった地点が、項王の突くべき目的であった。
城壁の一角に、秘密の門があった。
外からは、壁のようにしか見えない。だが、塼(せん。れんが)を取り除けば、通路が開ける仕組みになっていた。そこは、昼間項王によって斬られた瀕死の者たちが、運び込まれた秘密の通路であった。
今、そこに人が立っていた。
腕を斬られ、足を断たれた老者たちが、死ぬ前の最後の力を振り絞って秘密の通路を開け放っていた。
項王は、待っていた。
彼は、斬る者どもの中に、江東以来項軍に従って来た老兵たちをひそかに忍ばせていた。
彼らは、武信君項梁に忠誠を誓って郷里から出兵し、項梁が戦死した後も甥の項王に変わらず着き従っていた。
項王は、勝利のために彼らの命を欲した。
老兵たちは、何も言わずにこの若き覇王の言に従った。項梁と共に天下を目指した、彼らであった。項梁の死と共に、彼らも命尽きるべきであった。生き長らえた彼らは、項梁を継いだ甥の苦境を救う助けとなるならば、もはや命は惜しくもなかった。死んだ主君の若い甥が最後に勝つか、負けるかは、いずれ死に行く彼らにとって考慮の度外であった。
項王は、外から破ることのできない敵の要塞を、敵の心の内から破った。そのために、自分の老兵たちをはじめ、無数の命を捨てた。
「もはや、城は敗れたぞ、、、攻め取れ、諸君!」
項王は、雄叫びを挙げて騅を城内に踊り込ませた。
歩騎たちが、遅れじと後を駆けた。

戦の結果、滎陽の要塞は大きく崩されてしまった。
項王の夜襲は、郭の一角を剥ぎ取ることに成功した。
漢軍にとってもっと悪いことに、内側から攻められて甬道の一本がついに断ち切られてしまった。
翌日以降、項王軍は犠牲も顧みず猛攻を続けた。
漢軍は、日ごとに項王軍の攻撃に追い詰められることとなった。
完璧の守備が破られたからだけでは、なかった。
今回の戦で、項王の無敵が、敵にも味方にもさらに確信されることとなった。
項王軍の士気は再び上がり、それに対して漢軍はうろたえ始めた。
また一本、甬道が項王軍に奪われてしまった。
漢軍に、次第に糧食の不安が迫って来た。
「項羽、、、何て奴だ。」
漢王は、逆転されてしまった形勢に、苦渋の溜息を漏らした。
張良が、真剣に進言した。
「もう、この城市は陥落間近です、、、大王。お逃げなされよ。」
漢王は、彼の方を向いて言った。
「― 逃げる?」
陳平もまた、張良に同意した。
「大王がこの城市に居続ける理由など、もはやありません。この籠城戦は、敗れたのです。」
漢王は、二人の軍師を互いに見回した。
それから、彼は言った。
「俺は、まだ逃げないぞ。陥ちるところまで、ここにいる。」
二人は、声を上げた。
「それは、なりません―!」
しかし、漢王は言った。
「これは、俺と項羽の天下を賭けた大博打だ。博打は、怖気づいて退いたら負けよ。奴は、命を賭けている。だから俺もまた、俺のやり方で命を賭けなければならない。軍師諸君― 勝つための策は、君らの方がよく知っている。だが勝つための賭け方は、すまないが俺の方が君らよりも一枚上手だ!」
漢王は、高らかに哄笑した。
彼らが登る楼閣の眼下では、今も激しい攻防が続けられていた。
張良は、思った。
(― これだから、この男は恐ろしい。)
陳平は、思った。
(― 明日を生きることだけ、考えていると言うが、、、この先生は、明日にもっと大きな果実を掴んでやろうとしている。とてつもない、気宇と欲望。やがて天下を取れば、恐ろしく貪欲な龍となるだろうな。)
眼下で、また悲鳴が上がった。
項王が、また城下に突入して来たのであった。
これほどの強い男に挑戦されて持ち応えられる大胆を持ち合わせているのは、楼閣の上から眺めるこの男だけであった。しかし、彼が項王に勝つことは、決してできなかった。
漢王は、軍師たちに言った。
「あの阿哥(にいちゃん)に、伝えろ!、、、早く、諸侯を陥とせと!」

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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