一つだけ、断っておかなければならない。
現在、滎陽で項王と漢王が死闘を続けているのであるが、これから書く韓信の戦は、それと全く並行して行なわれている。ゆえに、これからの話は項王と漢王の対峙と同時進行で起った出来事である。歴史的時間で言えば、漢二年の年央以降のことである。
韓信の戦は、確かに漢王から委嘱された事業であった。しかし、彼の戦は楚漢の決戦場から遠く離れた山河で行なわれた。漢のために楚を追い詰めるのが彼の作戦の要諦であったが、楚漢から遠く離れて行なわれた戦は、独自の物語を持っている。以降は、項王と漢王との戦から一旦離れて、韓信の戦を追っていかなければならない。
これまでに書いたのは、韓信が西魏王豹を破ったところまであった。韓信は罌缶(おうふ)の計によって河水(黄河)を渡り、西魏王の不意を付いて魏都を陥とした。西魏王は韓信により捕らえられて、西魏の地は漢の河東郡となった。
漢王が西魏の次に韓信に命じたのは、北の趙・代の平定であった。
現在この両国は、趙王歇(あつ)と陳餘により占められている。陳餘が趙王歇を立てて、実権を握る形であった。もと陳餘は項王により冷遇された身で、項王を怨み反旗を翻して国を盗み取った。だが、かといって漢王に靡いたわけでもない。まるで両者の勝敗が定かならぬのを傍観して、北に第三勢力を気取ろうかという様子であった。
陳餘が漢からの降伏勧告に対して、送り付けた返事の内容はこうであった。
「― 漢は張耳の首を、差し出せ。張耳の首を渡さぬ限り、味方できぬ。」
陳餘と張耳は、かつて刎頚の交わりの二人として、世にも聞こえた義兄弟であった。なのに、陳餘は今やかつての義兄に対して、殺して肝を食らいたいほどの憎悪をたぎらせていた。
いま、西魏の旧都安邑に滞陣する韓信のもとに、その張耳がやって来た。
張耳は韓信の前に進んで、深々と叩頭して拝謁した。
「漢王より、左丞相の与力として加わるように、仰せつかりました。この老体、最後の力を振り絞って漢のために戦いたいと存じます。」
韓信は、老人のあまりの丁重さに慌てて、声を掛けた。
「叟(そう)は、もと一国の王です。この私に、そこまでなさる必要はなくとも、、、」
しかし、張耳は言った。
「左丞相の武勇は、とてもそれがしなどとは比較になりませぬ。恥ずかしいことに、それがしは陳餘に敗れて国を逐われました。その陳餘が、それがしの首を望んでおります。陳餘を攻略するためにこの老体を生かして働かせるも、殺して首を敵に与えるのも、左丞相の計略次第でございます。我が愚息ともどもに、どうか左丞相のご指示に全て従わせていただきとうございます。」
張耳の横には、嫡男の張敖もまた、頭を低くして控えていた。
韓信は、彼らに声を掛けるよりなかった。
「まずは、顔を上げられよ、、、」
かつて韓信が彭城で張耳と会った頃は、張耳はすでに世に聞こえた名士であった。いっぽうの韓信は、職業も定かならぬのらくらな若者であった。
その両者が、数年の歳月の後に不思議な巡り合わせで顔を合わせていた。韓信の名は、いま漢の名将として急速に高まりつつあった。いまの張耳は、彼に頭を下げる身となった。乱世の時代に浮沈は激しく、それよりも時を得た者の変化は驚くべきであった。変化に慣れていないのは、むしろ韓信その人であった。
韓信は、言った。
「陳餘は、いまだに夢を見ているのです。一撃を与えて、夢を覚ましてやりましょう、、、彼に叟の首を送り届けるには、及びません。」
それから、韓信は張耳たちに自分の作戦を披露した。
張耳は、彼の作戦に感服してうなずいた。
「貴方は、さすがに国士無双ですな!」
韓信は、苦笑した。
「叟、、、よしてくださいよ。」
作戦は、時を措かず始められることとなった。韓信は趙を取るために、まずは彼らに力を見せ付けるべきだと考えた。項王と漢王が対峙している現在、漢の側に諸侯を靡かせるためには漢軍の強さを示さなければならないと、判断した。
張耳は、自分の宿舎に戻って来た。
彼を迎えた、小さな影があった。
「父上、、、首は、繋がりましたか?」
そう言って張耳の前に、一人の女兒(こむすめ)が現れた。
張耳は、彼女に莞爾(にこり)と返した。
「戦うのが好きな、若者だ、、、だが、政治で人を殺せる器ではない。」
女兒は、爽やかな笑顔で、義父を喜んだ。
彼女は、黒燕であった。張耳の養女で、始皇帝ゆかりの女。始皇帝の前に現れた時には、いまだ幼女の姿形であった。だが、それから年月を経た現在、彼女はもう花をも羞じらわせるほどに美しい少女に変容していた。
黒燕は、にこにこと笑みながら、義父に言った。
「趙を取り戻して、韓信を味方に付ければ、項羽と劉邦の二人にも対抗できましょう、、、父上、あの男を離してはなりませんよ。」
張耳は、娘の利発な言葉に、薄笑いを浮かべた。
「項羽も、しょせん天下を治める器ではなかったな。彼奴から離れたのは、正解であったよ。かといって、劉邦めは項羽と戦って勝てぬ。この対峙は、長く続くだろう。付け込む隙が、ついに我が眼前に開けて来た―」
張耳は、黒燕の両肩を持って、話し掛けた。
「お前にも、これから働いてもらう。あの若者は、天才だがちと足りぬところがある。お前が、奴を立て直してやるがよいぞ!」
黒燕は、微笑んだ。
張耳は、改めて黒燕を眺めた。
(項羽も、おかしな男だよ。これほどの女に、目もくれなかったとは―)
彼は、この少女を己のために最高の相手に投資するつもりであった。だが項王の心には虞美人しかおらず、投資はうまくいかなった。いま、彼は次の投資対象を見据えていた。今度の若者は、項王よりも陥とすことが容易いと、張耳は読んだ。
黒燕は、聞いた。
「父上。韓信とは、王となれる器なのですか?」
張耳は、答えた。
「器かどうかは、その地位が決めるものだ。天下の声望が大きくなれば、やがて庶衆は王の位に昇ることを望むようになる。それを拒むことなど、誰にも許されないのであるよ。」
韓信の周囲で、人は彼を巡って動き始めていた。
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