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八 新たなる戦い(2)

(カテゴリ:背水の章

韓信は、張耳・張敖の父子を伴って素早く兵を起こした。

彼の最初の狙いは、代であった。
趙王と陳餘は伝統的な趙国の領域として、趙・代の両地に威令を敷いていた。しかし二つの地域は山脈を挟んで地理的に分かれており、陳餘は配下の夏説(かえつ)を相国に命じて代の地を守備させていた。
この戦いは、理想的に進んだ。
韓信は、夏説の周辺に一つの噂を流すだけで、事は済んだ。
― 漢が、匈奴と結んで代を襲うだろう。
戦国時代の趙国にとって、中原の諸国以上に国のわずらいであったのは、匈奴であった。
今、匈奴は冒頓単于という精悍無情な君主を得て、意気大いに上がっていた。この君主が、混乱の続く中国にいざ討ち入らんとして牙を磨いでいたとしても、何らの不思議はなかった。代を含む北方の高原地帯は、遊牧民にとって最も生活に適した土地であった。彼らから見れば、中国人は後からのこのこ現れ出て、彼らにとっての豊穣の大地を鍬(くわ)もて盗み取ったにすぎない。
その匈奴が、漢と結んで代を襲う―
かつての趙国が、いかに匈奴に苦しめられて、その防衛に神経をすり減らしたことであるか。趙の人間であるならば、誰でもがその重圧感を思い出さずにはいられなかった。
韓信の兵は、山を縫って進んでいった。
張敖が、不安になって韓信に聞いた。
「兵の数が、あまりにも少なすぎませんか、、、?」
韓信らが引き連れて来た兵卒の数は、張敖から見れば近年の戦役の規模に比べて、十万の単位が足りないように思われた。
韓信は、張敖に答えた。
「張子。大兵を用いれば、それだけで有利になるものではないぞ。兵馬の数が増えれば、輜重糧秣の数もそれだけ増える。輜重の部隊は、兵の最も弱い脇腹だ。この戦のように敵地に乗り込んでいく場合には、輜重を襲われて敵地で餓え苦しむ危険を冒すことになる。私は速戦を望み、速決を図る。この兵で、十分なのだ。」
韓信は、項王のような用兵をすることなど、とてもできなかった。項王ならば、兵をあえて餓えさせて走らせ、敵の糧食を襲うことによって勝つだろう。しかし、韓信は兵を野獣にすることなど、できなかった。項王を真似するには、彼の心は凡庸に過ぎた。そして彼の周囲の他人に対しては、項王のごとく神人として崇められるわけにはいかなった。彼は、彼なりの戦い方で、敵に当ろうとしていた。
果たして、敵が韓信の行く手に現れた。
上党の閼與(あつよ)の地に、漢軍と代軍が対峙した。
代軍を率いる夏説は、匈奴のうわさを疑った。真実なのか虚報であるのか、にわかには判断が付かなかった。だが、匈奴の脅威を知っていた彼は、国の北辺に注意を向けずにはいられなかった。こうして、偽情報によって敵を疑わせることに、成功した。
そこに、漢軍が北に向けて兵を発した。
二正面作戦を恐れる夏説は、直ちに好守の判断を下さなくてはならなかった。
韓信の予想は、見事に当った。
敵は、まず漢軍を潰さんとして、漢軍の前面に兵馬を展開して、待ち構えていた。
韓信は、敵の布陣を見て、敵将を称えた。
「よくぞ時を移さず、我が軍に向けてこれだけの兵を集めた。敵将の判断は、適確であるよ。」
もし北からも匈奴が攻めて来る可能性があるならば、南からの漢の進撃に対して守っていては、追い詰められてしまう恐れがあった。しかし夏説が受け取った情報は、漢軍の数が少ないことを示していた。南北からの圧力を撥ね退けるためには、より弱い正面を進んで叩くべし。それが、夏説の下した結論であった。
韓信は、批評した。
「だが、悲しいかな敵には隙が見られる。北に気を取られて、この戦に早く勝とうと焦っている。ゆえに、すでに我が軍の術中に入った。」
横にいる張敖は、自信をもって語る韓信に、しかしいまだ得心がいかなかった。
(本当に、この将を信じてよいのであろうか、、、?)
張敖は、この男が用兵の天才としてにわかに漢王に認められた経緯を、聞いていた。
しかし、目の前の男は、彼が想像していた人物像とは似ても似つかず、豪胆さも感じられなければ、輝く才気を見せびらかすわけでもなかった。まるで市井にいる一青年と、何ら変わるところがなかった。
彼らの後ろでは、張耳が老いた目を光らせていた。
彼は、息子のように韓信を疑ってはいなかった。
(この男が平凡に見えるのは、自分に力があることを分かっているからだ。確かに、韓信は天才だ。)
張耳は、かつて信陵君の食客となって、多くの人物を見て来た。だが、韓信のような人物は、信陵君の下に集った英雄豪傑たちの中に、見ることができなかった。息子が見るとおり、彼の知っている範囲で見た韓信の人物像とは、ただの市井の一青年のそれであった。市井にしか生きられないような欲も覇気もない人間は、かつて彼が暮らして来た任侠の世界には、もとより入る資格がなかった。
(戦国人とは、天下で出世と栄達を望むものだ。あの劉邦などは、まさに戦国人の生き残りであるよ。奴は誰よりも出世欲が強いから、これまで危ないことを繰り返しながら勝ち上がって来た。一方この韓信は、間違いなく天下無双の力を持っている。だが、この男は劉邦や俺のような戦国人らしさが、とんと見えない。まるで誰か別人のために、勝っているかのようだ。韓信よ、、、お主はそれで満足なのか?)
張耳は、韓信に戦国人とはいささか違う気質を見ていた。ひょっとしたら、彼は乱世が終わった時代に現れた、新しい人間なのかもしれなかった。だが、張耳はそのような韓信を何としても利用しなければならなかった。張耳は、劉邦と同じく爪の先まで戦国人であった。
戦闘が、始まった。
代軍は猛攻撃を見せて、劣勢の敵軍を蹴散らさんと突進した。
だが、漢軍は待ち構えて、固く守った。
韓信は、あらかじめ地の利を計算して、数刻の間防備が可能な構えをこしらえていた。代軍は、一日で勝敗を決めようと、攻めに攻め立てた。そのために、いつしか軍は前方ばかりに気を取られるようになっていった。
遠方の丘の上で、漢の赤旗が振られた。
それが、合図であった。
曹参が、隠してあった部隊を率いて、山影から一挙に撃って出た。じつは、こちらの部隊こそが、漢軍の最精鋭であった。
曹参軍は、代軍の背後を急襲した。
戦場の流れを一つの方向に集め過ぎていた代軍は、後ろからの挟み撃ちについに不意を付かれた。
代軍は、崩れた。後は、守っていた韓信もまた、追撃に転じるばかりであった。
戦の結果は、畢竟韓信の完勝となった。夏説は曹参に捕らえられ、代は漢の取るところとなった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章