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九 李左車(1)

(カテゴリ:背水の章

代軍を一蹴することに成功して、次の韓信の狙いは趙本国であった。

「― 一挙に太行を越えて、趙を攻めるべきでしょう!」
韓信の鮮やかな勝利を見た張敖は、今や彼の用兵ならば何でもできるだろうと、思うようになった。
韓信は、苦笑した。
「張子。ここまでは、さほどの困難はないのだよ。」
趙の本拠を付くためには、太行の八陘(はっけい)を抜かなければならない。八陘は、世に聞こえた天下の険であった。
韓信は、言った。
「趙が、どうして長らく秦にも負けぬ大国として君臨できたのかを、思い巡らすがよい。彼の地は守るに易く、攻めるに難いのだ。迂闊な用兵は、全滅を招くであろう。」
しかし、張敖はもはや強気となって、主張した。
「いまさら、国士無双のあなたが何を逡巡することがあるのですか!たとえ八陘の険があったとしても、いや八陘の険があったればこそ、敵はまさか一挙に進んで来るとは、よもや思わないでしょうよ。兵法にも言うではありませんか、

― 其の無備を攻め、其の不意に出ず(始計篇) ―

と?」
張敖は、流行りの孫子兵法の一節を出した。
彼もまた、張家の嫡男として若い頃からいっぱしの教養を身に付けていた。今の時代に兵権を操る立場にある貴人は、孫子兵法ぐらいは臨機に唱えることができないようでは、社交の恥ともなるべきであった。それで張敖は、今の状況にぴたりと合うべき言葉をすかさず抜き出して見せた。
もとより、貴人の社交兵法ごとき、韓信に取っては参考にすらなるはずもない。
だが、韓信はこのとき張敖の言葉に応じた。
「確かに、兵を進めるならば今である。今を措いて、他はない。」
韓信は時を措かず、趙攻略戦に移った。
代と趙の地を隔てる太行山脈は、趙にとっての天然の長城であった。
太原から山中の隘路を越えて趙の平原に出る道を、井陘(せいけい)という。
韓信は、兵をこの井陘に進ませようとした。
道は極めて狭く、馬も車も横列を取ることがほとんど難しい。
軍吏たちは手際よく行軍の段取りを整え、明日にも行軍を始める用意が整った。
勢いに乗る漢軍は、万全であると張敖は思っていた。
だが、次の日が明けて。
韓信は、張敖の陣営に現れて、彼に言った。
「だめだ。進めない、、、いったん、中止しよう。」
張敖は、韓信の突然の弱気に驚き怪しんだが、韓信はすぐさま軍吏に命じて、滞陣の用意に取り掛からせた。


韓信は、鄧陵子を趙に侵入させて、相手の動静をつぶさに探っていた。
このとき、韓信は鄧陵子を通じて、趙に偽計を蒔いていた。
だが昨晩遅くになって、鄧陵子から偽計が破れたと連絡があった。
― 広武君李左車、我が計を破る。
彼の伝えた詳細は、こうであった。
韓信は、趙国の宮廷に対して、このような偽情報を仕込んだ。
「燕国と斉国が、漢に内応した。漢は、両国に趙に攻め入り、領地を分け取りすべきことを勧めた―」
この情報に、陳餘は踊らされた。
彼は恐慌状態になり、家臣を集めて命じた。
「燕斉が、攻め寄せて来るぞ!、、、足下は、直ちに備えよ。兵を国境に展開して、備えを厳重にせよ!」
陳餘は、いつもの調子で将軍たちに居丈高に怒鳴りつけた。彼は、自分が兵法において最高の智者であると、信じて疑わなかった。それで、自分の配下たちのことを常に侮っていた。
誰も声を挙げることがなかった家臣の中から、しかし一人の将軍が立ち上がった。
陳餘の配下で兵権を担う、広武君李左車であった。
「陳王。いったいあなたは、趙を滅亡させるおつもりですか―?」
李左車に言われて、陳餘は青筋を走らせて憤った。
「おのれ、小賢しい言動を吐くなっ!、、、お前ごときに、兵の何が分かるか!」
しかし、主君に罵られても、李左車は言い続けた。
「もし燕斉に備えて国境に兵を移せば、西の備えが必ずおろそかになります。今、最も憂慮すべき敵は、漢の韓信です。それがしは、この話は韓信が放った偽計ではないかと疑います。趙の八陘は、我らが守れば敵が決して越えることができない、趙を守る長城。もしこの話が我らを無備に追い込み、我らの不意を衝くために韓信が仕組んだとすれば、陳王は何となされる。敵は、縦横の計略を持つ将です。陳王、それがしごときは取るに足らぬ愚将であります。ですが敵を侮ることだけは、どうかお考えを改められよ―」
凛として、主君を諌めた。
陳餘は、いまだに怒っていた。だが、広武君の言葉は、自分の軽率な判断よりもずっと理に適っていた。
果たしてその後、韓信は兵を動かした。
李左車は、陳餘に対して言った。
「夏説では、韓信に勝つことができますまい。侵略は、必至となりました。」
陳餘は、またも狼狽した。
李左車は、彼に言った。
「彼奴が虚を衝こうと目論むのならば、こちらも衝き返すだけです。よいですか―」
彼は、陳餘にひそかに耳打ちした。
次の日の朝、再び諸将が集められて、号令が出された。
「― 燕斉の侵略に、備えなければならぬ。諸将は両国に向けて、兵を向けよ。」
今さらの下命に諸将はどよめいたが、陳餘は罵倒して彼らの口を封じた。
こうして、邯鄲から趙兵は散っていった。西への備えは、解かれたかに見えた。
韓信は、趙が偽計に乗ったと判断して、昨日まで井陘を抜く作戦を立てていた。
だが寸前で、ついに鄧陵子が趙の真意を嗅ぎ出して、韓信に伝えて来た。
韓信は、暗澹として曹参に言った。
「いけないよ、、、李左車は、密かに兵を置いて待ち構えている。もしこのまま進んでいたならば、我が軍は井陘口で全滅の憂き目に遇っていたであろう。だが、これで趙の虚を衝く策は、潰えてしまった。何とも、難しくなってしまったよ。」
韓信は、もう一度考え直さざるをえなくなった。敵の李左車もまた、韓信同様によく兵法を知る将であった。しかし、今の彼は、同士を得て喜ぶどころではなかった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章