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九 李左車(2)

(カテゴリ:背水の章

このころ趙王歇は、鉅鹿の南にある襄國(じょうこく)に都を置いていた。しかし、趙国の政治の権を握っているのは誰かと言えば、それはまぎれもなく陳餘であった。陳餘は歇を担ぎ挙げて張耳を趙より追い出し、歇を後の王に据え付けた。自らは代王を名乗りながら、趙王のもとに留まって国の行く末を一手に左右していたのである。

その陳餘に対して、外交の策を説く者があった。
「― 大王よ。趙を斉・燕と合従させて、天下を三分するべき時が参りました。河北の諸侯が一致して南に当るならば、楚漢両国といえどももはや手を出すことができません。楚漢を戦うだけ戦わせて疲れさせ、漁父の利を得ることが河北の生き残る道であると、臣は考えます。」
進言したのは、蒯通であった。彼は、今も陳餘の配下として留まっていた。
陳餘は、この謀略の鬼とも言える縦横家に、これまでずいぶん助けてもらった。蒯通は、今に至るまで陳餘に附き従って、彼に智恵を授け続けた。この縦横家は、ただただ自分の脳中の快楽を満たしたいと願っているばかりであった。彼の脳中の快楽とは、天下の地図に新たに線を引き直し、外交の奇蹟を天下に披露するところにあった。だから、陳餘の下で富貴を望むこともなく、彼の補佐を続けて来た。
「この蒯通を、斉に派遣したまえ。斉の田横もまた、わが国と同様楚漢の板挟みとなって様子を見ています。すなわち、我らと利害が一致しているのです。いま趙・斉が連合すれば、決め手を欠く楚漢の両国を、高所から手玉に取ることができるでしょう。それがしが斉に赴いて、三寸の舌をもって趙に靡かせましょうぞ。」
蒯通は、絶妙の外交策を主君に進言した。
だが、この頃の陳餘は、しだいに蒯通のことを厭わしく思い始めていた。
「蒯通、、、趙は、天下の侯国であるぞ。天下の候国が、そのような姑息な外交を行なって、それで政治の王道と言うべきであろうか?」
蒯通は、また主君の悪い癖が出たかと鼻白んで、返した。
「国家の外交と申すものは、村夫子が郷里のもめごとを調停する仕事とは次元が違うのです。王道政治などと口でおっしゃるのは大いに結構ですが、現実に国と国との関係を決めるのは、力関係しかないのです。国家が生き残るためには、むしろ非情卑劣であることが鉄則なのですぞ。」
だが陳餘は、理想が好きであった。彼は政治家として、理想の王道を推し進めるべきだという、儒家の主張に酔い痴れていた。
「蒯通。お前の言葉は、覇道である。覇道では、この天下で王となることはできない。なぜならば覇道は人から支持されることがなく、人から支持されるのは仁義の王道でなければならないからだ。国を操る者として、正路をもって進まなければどうして人の上に立つことができるであろうか?」
しかし、蒯通は返した。
「ですが、かの端木子貢は孔門十哲に数えられる孔子の高弟でしたが、彼は故国の魯を守るために斉・呉・越・晋に赴いて諸侯を三寸の舌で篭絡し、列強を互いに戦わせて諸侯の力を削ぐことに成功しました。このように、徳行に優れた孔門の儒家であっても、いざ国家の外交ともなれば虚言を弄して諸侯を操ることすら辞さなかったのです。大王のように国家の中枢を差配する立場にありながら外交に道徳を持ち込むことは、あなたが信奉なされるかつての高名な儒家ですら、取らなかったのでありますぞ―」
蒯通の皮肉な指摘を聞いて、陳餘はついに怒った。
「黙れっ、蒯通、、、!もうよい、お前は下がれ!」
陳餘に斥けられて、蒯通は彼のもとから引き下がりながら、思った。
(あなたは、王道とか仁義とか言う前に、まず自分の配下に対する傲慢を改めるべきだよ―)
彼は、これまで陳餘に付き従って来た。それは、陳餘が自分の策を用いてくれるからであった。だが陳餘は、趙を奪って成功を手にするや、持ち前の独善な性癖を再び顕わにしていた。(河北を合従しさえすれば、韓信とて手を出せなくなったはずなのに。だがそれを斥けたら、もう韓信と武力で戦うより他はなくなる。陳餘、あなたが韓信と戦えるのですか、、、?)
蒯通は、ようやく陳餘に愛想を尽かしていった。
蒯通が下がった後に、広武君李左車が陳餘のところに参内して来た。
李左車は、主君に言った。
「― さすがに、韓信は大した者であります。」
陳餘は、彼に言った。
「そうか。韓信め、こちらの策に気付いて、井陘を越えずに留まったか。」
しかし、李左車は、言った。
「いいえ。情報によると、彼はついに井陘越えの号令を発しました。」
陳餘は、耳を疑った。
「、、、お主の言葉が、よく聞き取れなかったが、、、?」
李左車は、はっきりと言った。
「韓信は、井陘に向けて兵を発しました。兵数二十万と、号しています。」
陳餘は、疑うばかりであった。
「― なぜだ!」
李左車は、答えた。
「分かりません。何か策があるのかもしれないし、もしかして何の策もないのかも、しれません。」
李左車は、韓信が進撃の指令を出したことを聞いて、彼のことを改めて恐れた。もし良将ならば、こちらに邀撃の備えがあることを知れば、決して攻めて来ない。しかしいま韓信は、あえて良将の道を外して見せた。それは、兵法の常道から言えば、あまりにも危険な道であった。
(だが、兵は詭道なり― 衆人にも知れるがごとき勝ち方を踏むようでは、たとえば私のような相手に対して勝つことができない。韓信、、、何を考えるか?)
陳餘は、手をわな付かせながら、李左車に聞いた。
「、、、いかようにして、防ぐべきであるか。」
李左車は、答えた。
「敵が井陘を越えて来る以上は、必然の策を打つべきです。井陘の隘路にいったん入ったならば、車二台を並べることができず、馬を列となすことすらできなくなります。そこで間道から伏兵を走らせて、伸び切った敵の横部を寸断するのです。これが、古来より趙軍によって行なわれて来た防衛策です。」
陳餘は、言った。
「、、、それで、必ず勝てるのであるか?」
李左車は、言った。
「― 勝つべからざるは己にあるも、勝つべきは敵に在り、と孫子は言います。我ができることは、最善の策を打つだけなのです。勝てるかどうかは、敵と戦ってはじめて明らかとなることです。戦に絶対の勝利を求めるのは、傲慢と申すものです。」
李左車は、冷静に答えた。それは、不可解な敵の動きに恐れて怒る、主君の表情とはひどく対照をなしていた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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