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十 知と意地と(1)

(カテゴリ:背水の章

趙軍は、韓信を迎え撃つ体制に入った。

韓信が動いた以上は、こちらも兵を井陘口に進めなければならない。陳餘は趙王を連れ立って二十万の軍を動員させ、韓信に対することに決した。
李左車は、将軍として陳餘に従った。
趙軍は堂々たる威容を示して進んだが、彼は自分の陣営に戻ると、思案に悩んだ。
「韓信めが、、、何を企むか。」
韓信は、兵法を知っている。
それは、李左車がこれまでの彼の戦い方を見て、確信を持って言えることであった。
常人は、兵法の書を一通り読破すれば兵法を知ったと言えると、思い込んでいる。
だが真の兵法家に言わせれば、兵法を読んだ者と、兵法を知っている者とはまるで違う。両者は、混同できない。混同するのは、国家にとっての危険ですらある。
兵法を知っている者は、天・地・人の常人には見えざる法則を掴んで、自在に応用することができる。それは、兵法を読んで書いてあることを復唱する人間にはできない領域なのである。両者の差は、いざ実戦の場に出て、千変万化する状況に面したときに、如実に現れるだろう。兵法を知っている者とは、法則を掴んで応用し、ゆえに創造的飛躍ができる者なのである。そのことができるのは、時代の中で選ばれた者でしかない。
李左車は、疑問を持った。
「奴は、本当に井陘を二十万もの大軍をもって、進ませるつもりなのであろうか?」
隘路に大軍を進ませれば、兵馬の縦列は長大となる。先鋒・中堅・後方の連繋が取れず、敵に容易に寸断される隙をさらすこととなろう。特に輜重の部隊は、最も危険である。
李左車は、思いを馳せた。
「兵法の常道を行けば、ありえないことだ。韓信が、知らぬはずもあるまい―」
やがて、時が過ぎた。
進む韓信の兵の実態が、趙軍に明らかになり始めた。
「一万余?、、、それだけなのか?」
陳餘は、李左車からの報告を聞いて、目を丸くした。
李左車は、主君に答えた。
「間違いありません。隘路で二十万もの長大な縦列を連ねることなどは、所詮無謀なのです。覚めた目をもって井陘を越えるための数を計算すれば、韓信の兵数にしかなりえません。」
敵の奇襲を恐れるならば、井陘を通らせる兵の数はせいぜい一万を大きく越えられないであろう。それは、李左車の予測した数でもあった。やはり、韓信は分かっていた。だが、それだけの数でどのように戦うつもりなのかが、李左車にはまだ分からなかった。
陳餘は、拍子抜けした敵の数の少なさに、哄笑した。
「こちらは、二十万。相手は、一万余、、、韓信め、捨て鉢となったか!」
李左車は、笑うことなく言った。
「敵は、韓信です。」
陳餘は、言った。
「そうだ、漢の韓信だ。漢が項王に勝てぬいま、漢の勝利はあの男に掛かっている。あの男を趙が破ったとき、趙は漢に取って代わるであろう―」
陳餘は、輝かしい前途が自分の前に開けてきたことを感じて、喜びに満ちあふれて来た。
彼は、李左車に聞いた。
「兵数が十倍ならば囲めとは、孫子の言であったな。」

― 用兵の法は、十なれば則ち之を圍(かこ)め(謀攻篇) ―

李左車は、答えた。
「仰せのとおりです。」
陳餘は、さらに聞いた。
「小人数の兵が逃げもせずに挑み掛かるならば、必ず大人数の兵に捕らえられるとも、言っていたな。」
― 小敵の堅は、大敵の擒(とりこ)なり(同篇) ―

李左車は、答えた。
「確かに、孫子の言です。」
陳餘は、ますます得意になって、自らの知識を持ち出した。
「必勝の策とは、我が軍が先に戦場で待って力を貯え、敵軍が後から戦場に着いて疲れ切ったところを撃つところにある。そうであるな?」
― 先に戦地に処(お)りて敵を待つ者は佚(いつ)し、後れて戦地に処りて戦に赴く者は労す(虚実篇) ―

李左車は、うなずくより他はなかった。
「それは、孫子の教えることです。兵法の、道です。」
陳餘は、意気軒昂に言い放った。
「どうだ!― すでに、我が軍は勝っている。韓信は兵法家などと申すが、この陳餘が兵法によって奴を倒してくれようぞ!」
陳餘は、うはははははと高らかに笑った。
彼は、かつて鉅鹿の籠城戦の際に、張耳から用兵のまずさについて罵倒されたことに、内心深く傷付いていた。陳餘は、自分が兵法についても一流の人間であると自ら思いたかった。それで、いま漢の兵法家として評価が高まっている韓信を見事に倒して、自分の傷付いた自尊心を取り戻して天下に自分の才能を見せ付けてやりたいと、心がうずくように望んだ。
陳餘は、李左車に言った。
「よし!― 井陘口に韓信が出てきたところを、叩きのめしてくれよう!」
しかし、李左車は主君に賛同しなかった。
「陳王、相手は、韓信ですぞ!勝つためには、全力を尽さなくてははなりません。どうかそれがしに三万の兵を、与えたまえ。予定通り、間道を伝って奇襲するに如くはありません。」
だが、陳餘は言った。
「広武君。そのような戦い方は、余の勝利とはいえぬ。」
李左車は、叫んだ。
「― 陳王。韓信を、甘く見てはなりません、、、!」
だが陳餘は、韓信と戦って勝つことに凝り固まってしまった。
「広武君!、、、お主は、ただの戦いの狗に過ぎぬ。しかしこの余は、天下を欲しているのだ。余は、この戦で完勝を欲する。韓信を戦場で破り、余の強さを天下に示すのだ。漢王に韓信と張耳の首を送り付けて、この陳餘こそが天下の王者であることを見せ付けるのだ。余の戦は、ただ韓信を破ることに尽きない。天下に陳餘ありと言うことを示すための、戦でなくてはならないのだ!」
もはや、陳餘は李左車の進言を容れようとはしなかった。

          

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第五章 楚滅秦の章


           
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第七章 楚漢の章


           
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第十章 垓下の章



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