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十 知と意地と(2)

(カテゴリ:背水の章

陣営に戻った李左車は、一人楽しまなかった。

主君の独善癖は今に始まったことではないが、今回の戦ばかりは敵を侮ることは許されないはずだ。それを陳餘は、韓信という名前を倒す快感に心奪われて、韓信という将と対戦する懸念をどこかに置いてしまった。
「あのお方には、この世に自分より偉大なものがあるということが、決して見えないのだ、、、」
李左車は、嘆息した。
ふと彼は、奥に気配を感じた。
「、、、誰だ。」
誰何されて、奥の気配は答えた。
「― 鄧陵子と、申します。」
李左車は、問うた。
「韓信の、間諜だな。」
鄧陵子は、答えた。
「いかにも。」
李左車は、剣を抜いた。
「間諜が、この広武君の前にあえて現れた理由は、いかにも不審である。だが理由を問わず、敵の手の者は趙の将軍として、斬らなければならぬ。」
鄧陵子は、李左車の剣先を見ても怯むことなく、彼に言った。
「わが主韓信は、やがて井陘口で趙軍と相見えるでしょう。韓信は、必ず勝利します。広武君、あなたは虜となるのです。」
李左車は、彼に返した。
「十倍の兵数で、どうやって勝利できるというか。どのような作戦をもってしても、勝利など得られない。もし勝てる男が今の世にいるとすれば― それは、項王だけだ。」
鄧陵子は、答えた。
「韓信は、項王に勝るとも劣りません。彼は、いずれ昇龍となるでしょう。」
李左車は、言った。
「彼は、兵法家だ。私には、彼の偉大さが分かる。だが、今回の戦は、無謀としか言い様がない。勝てぬものは、勝てぬ。もし韓信が勝つならば、私は兵法家のはしくれとして、彼に頭を下げるより他はない。」
それは、彼の偽らざる心であった。いま彼は趙の将軍として漢の韓信と戦わなければならないが、李左車は心のどこかで韓信がどのように戦うつもりなのであろうか、見届けてみたいと思っていた。彼もまた、偽者ではない具眼の兵法家であった。
鄧陵子は、言った。
「そんなあなたは、どうして陳餘に付き従っておられるのですか。陳餘があなたの力にふさわしからぬ小人であることを、知っておりながら―」
李左車は、言葉を遮った。
「言うでない。君、君たらずといえども、臣、臣たらざるべからずだ。」
戦国時代の末期、趙は始皇帝に攻められて国を焼かれ、朝廷の貴人と士大夫たちは始皇帝によって徹底的に弾圧されることとなった。
李左車の家も、その対象であった。貴人の階級であったのが、全ての財産を奪われて追放され、一族は生きる術すら失いかけた。
そのような困窮した一族に、裏の世界から密かに手を差し伸べた者があった。
それが、陳餘であった。陳餘は趙国の在野の名士として、そして表と裏の世界の双方で隠然たる実力を貯える人物として、趙国を逐われた貴人たちの家をかくまい、生き長らえさせた。陳餘にかくまわれた貴人たちは、彼の大恩に報いて、彼と家を挙げての契りを結ぶことを誓った。
李左車は、陳餘と契りを結んだ貴人の家の、俊秀の少年であった。
陳餘は、やがて各家から秀でた子弟を集めて、自分の配下とした。子弟たちは、生家の者によって陳餘への絶対忠誠を誓うように言い含められていた。こうして陳餘は困窮した貴人を拾って買うことによって、自分の勢力を作り上げることに成功したのであった。
李左車は、鄧陵子に言った。
「それがしは、少年の頃より陳王に附き従って来た。陳王は、まことに世を渡るのが上手なお人である。だから、今趙の実力者として君臨する幸せを得た。だがあのお方は、残念ながら君主の資格はない。ご自分だけが偉大であると信じ、人を侮る傲慢がある。今回の戦で、私の意見は容れられなかった。だが、それでも私は陳王のために戦うであろう。今の私には、それしか道がない。」
鄧陵子は、李左車に頭を下げた。
「― 両雄が戦うのは、あまりに辛うございます。それがしは、墨家です。できるならば、戦の苦痛は少ない方がよいと、願っております。君主たらざる陳餘のために戦うあなたのお心は、変わりませんか。」
李左車は、きっぱりと答えた。
「変わらぬ。韓信とは、戦場で相見えることとなろう。いかな韓信といえども、この戦は勝つことができない―!」
そう言った直後、彼はおもむろに奥の陰に向けて踏み込んだ。
李左車は、鄧陵子に向けて抜き身の剣を振り下ろした。
しかし、剣は空を切った。
すでに、鄧陵子はそこにいなかった。
一人陣営の中に取り残された李左車は、剣を収めてから静かに独語した。
「兵法家とは、何のために戦うのか、、、」
彼は、亡び去る秦軍のために戦い続けた章邯のことを、心に描いた。
李左車は、言葉を続けた。
「勝つために、戦う。ただ、そのために生きる。勝った後のことは、兵法の知るところではない。章邯は、支えるべからざる国のために勝ち続け、そしてその勝利は結局空しくなった。陳王は、決して天下を取れないだろう。それは、分かっている。分かっていても、私は兵法家として彼のために戦わずにはおられない。」
李左車は、それから韓信についても、考えた。
「彼は、何のために戦うというのであるか―」
漢王の将として戦うのであれば、彼は李左車よりはましであった。漢王は、少なくとも陳王より君主としての資格がある。
「だが、彼は漢王の狗であり続けるのであろうか。それとも?」
李左車は、先程の鄧陵子が韓信のことをやがて昇龍となるだろうと言っていたことを、思い出した。それは、李左車にとって途方もないことであった。そして、韓信という男に果たして昇龍となる覚悟があるのであろうかと、彼は敵手の兵法家に思いを馳せた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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