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十一 九地九変(1)

(カテゴリ:背水の章

井陘の隘路は、長くて狭い。

山林、険阻、沮沢に迫られた道を、兵法では圮地(ひち)と呼ぶ。圮地とは「くずれた土地」という意味で、およそ兵を用いて戦うことに適さない土地である。このような土地は、速やかに行軍して通り過ぎなければならないと、兵法は教えている。だから井陘のような長く続く山険が兵を進めるのにいかに不適であるかは、兵法によって明らかなことであった。
その井陘を、いま韓信の漢軍は進んでいた。
兵の数は、二万にも満たない。出発するときに号令した二十万という兵数は、まるっきりの偽宣伝であった。
韓信は、張敖に言った。
「二十万という数に騙されるほど、愚かな敵軍ではあるまい。今ごろ、敵は我が兵の実数を織り込んで、待ち構えているであろうよ。」
張敖は、この行軍中に繰り返し言っている言葉を、またも韓信に返した。
「私は、あなたの勝利を、信じています。そうです、信じて、いますとも、、、」
彼の口調は、これもこれまでと同様に、いくぶん上ずった気配であった。顔は相変わらずうつ伏せたままで、韓信に目を合わせることすらしなかった。
行軍は、奇襲を恐れて慎重に進められていった。韓信はあらゆる情報を収集して敵の隠れた動きを探り、今日の日程分を行軍する前に安全を確かめながら、進んでいった。韓信はその読みに気を使いながら、自軍の進む兵馬の動きにもまた注意を怠らなかった。高度に神経を使うこの仕事は、韓信以外ではとても務まるものではなかった。
しかし韓信は、張敖の前ではしごく平然として、彼に言った。
「これ以上の兵を率いれば、後ろの行軍がどうなっているかも分からなくなる。井陘を抜けたときに後ろの兵が全部消え去っていることに気付いたなどともなれば、いずれ戦史で嗤(わら)い物となるだろうよ。」
韓信は、声を立てて笑った。
張敖は、笑いもせずに言った。
「必勝の策が、あるのですね?、、、私は、それを信じています。」
韓信は真面目な顔になって、彼に言った。
「張子。孫子は言っている、『勝つべからざるは己にあるも、勝つべきは敵に在り』だ。敵と実際に戦ったとき、はじめて我は勝利という結果を得ることができるかどうかが分かるのだ。ゆえに必勝の戦は、存在しない。だが必敗の戦は、ある。兵の法則を無視した戦は、必ず敗れるのだ。」
そう言い残してから、韓信は陣営の席を立って、再び自軍に指示を出すために軍吏のもとに出向いていった。
残された張敖は、むにゃむにゃと一人でつぶやいた。
(どうして、あれほどの自信を見せることができるのだろうか?あの人は―)
張敖は、彼のことを一時は国士無双だと持ち上げていたが、彼が趙攻撃をついに発令したとき以来、韓信への信仰に確信が持てなくなってしまっていた。彼の不安は日を追って敵地に向けて兵を進めるごとに、和らぐどころかますます大きくなるばかりであった。
(私がどう考えても、これは必敗の戦だ、、、いや、あの人は私をはるかに越えているはずだ。だから、私などの思いも付かない奇策があるに違いない。そうに、違いない。違いないと、信じたいが、、、)
半刻ほど経って、韓信が陣営に戻ってきた。
彼は、張敖に言った。
「― さきほど、鄧陵子から敵についての連絡を得た。李左車が陳餘に出した奇襲の献策は、斥けられた。これで、後の日程は一挙に井陘口まで進むのみだ。」
韓信は、上機嫌であった。
張敖は、韓信に聞いた。
「敵軍は、井陘口に展開するつもりなのですか?」
韓信は、答えた。
「そうだ。陳餘は律儀にも、我が軍を正面から迎え撃とうと考えている。」
張敖は、言った。
「それで、敵の軍勢は?」
韓信は、彼のところに近づいた。
「君だけには、伝えておこう、、、兵には、告げるでないぞ。」
韓信は、張敖に耳打ちした。
張敖は、耳に囁かれた数字を聞いて、ひっ!と驚いた。
韓信は、言った。
「私の予想の数より、少し多い。だが、どちらにしても大して変わりがない。」
張敖は、わなわなと震え出した。
「ど、、、どうやって、戦うのですか、、、」
韓信は、言った。
「その大略はだな、張子―」
彼は、恐れる張敖に対して、言った。
「敵の侮りを誘うことが、この戦の枢要なのだ。私は最初、偽計を用いて敵の注意をそらし、奇襲することを目論んだ。だが、それは破られてしまった。敵には、李左車という兵法家がいたからだ。それで、私はあえて兵法の道を外した。兵法の道を外すことで、李左車の予想をはぐらかしたのだ。だが、常なる道をはぐらかすこともまた、兵法のうちなのだ。」
韓信は、莞爾(にこり)とした。
張敖は、言葉を返すこともできなかった。
韓信の表情には、確信に満ちた強さがあった。そのことを、張敖は彼からの気配で感じていた。だが、自分の持ち合わせている理解の範囲から見れば、韓信の確信を信じることなど、途方もないことであった。張敖は、その二つの矛盾を整理できずに、視点の合わぬ目で韓信を見るばかりであった。
(もしこれで勝利するならば、この人の兵法は神の業だ、、、)
張敖は、思った。
韓信は、言った。
「敵は、おそらく綿蔓水(めんばんすい)を越えた向こうの要地に、陣を敷いているであろう。そこから陳餘を引きずり出すためには、彼を奢りに奢らせなければならない、、、この戦には、三方面の役者が必要だ。」
韓信は、直ちに戦場を構想した。
一方面は、仮左丞相曹参に任せる。彼の強固な用兵は、必須であった。
もう一方面は、左丞相韓信と、張耳が受け持つだろう。二人の首に、陳餘は執着している。
「そして、もう一方面がある。いずれの方面とも、恐るべき戦となるだろう― さて張子、君にできることは、三つのうちのどれであろうか?」
韓信はしごく軽い調子で、重々しい表情のままの張敖に、問い掛けた。

          

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