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二十 、、、再び、離間策。(1)

(カテゴリ:背水の章

滎陽を攻める、項王軍の陣営。

項王の御前で、漢からの使者が熱心に説き伏せていた。
「もとより両雄の戦は、互いの行き違いから生じたものです。漢王は、当初の約束通りに関中の王となることを、望んでいました。兵を率いて東に進んだのは、約束の分を取り戻すためにすぎなかったのです。いま、天下は楚漢で長年に渉って相争い、諸国ははなはだしく疲弊しております。もはやこれ以上、天下に戦を続けることは、必ずや天理に背き、人民を怨ませるでしょう。今は、滎陽を領域の境として定めて、楚漢の両国が矛を収めるべきではないでしょうか。大王、考慮なさりませ。」
説いていた漢使は、随何であった。
彼は、軍師の陳平に命じられて、黥布のときと同様に、項王の情に訴えかけて説き伏せる役目を、課せられていた。
項王は、使者の言葉を、目を閉じて聴いていた。
彭城の戦以来、彼は戦うばかりの日々であった。
戦って勝つことは、確かに彼の力を存分に人に見せ付けた。もはや項王は天下の誰からも恐怖され、その名前に万人はひれ伏さずにはおられなかった。
だが、覇王として恐れられる項王の心は、沈むばかりであった。
何一つ、素晴らしい夢を追い求めることが、できない。
戦って血まみれとなるばかりで、この狭い中国で北に南に兵馬を走らせることに、捉われている。
まるで鼠を取る、猫のようであった。
猛虎の魂を持つ項王は、捕らえられた者の心地がして、毎夜を哀しんでいた。
「大王!、、、天下は、死よりも生を望んでいるのです。」
随何は、情感を込めて、項王に説いた。
項王は、無言であり続けた。
彼の後ろには、亜父范増がいた。
亜父は、思った。
(わが王は、心が繊細だ、、、このままでは、動かされる。)
彼は、黙る項王に代わって、随何に申した。
「一夜、返答を待たれよ。明日、是非を答えよう。」
漢使は、しばし返答を待たされることとなった。
日が落ちて、夜が来た。
自分の陣舎に戻った亜父のもとに、訪れる客があった。
亜父は、招かれて入った客を、鋭く見据えた。
「― 久しぶりで、あるな。陳爵卿。いや、漢ではすでに別の役職であるか。」
男は、拝礼して、にやりと笑った。
「役職などは、結構。陳平で、よろしいですよ― 亜父。」
亜父を密かに訪れた者は、軍師の陳平その人であった。
亜父と陳平は、燭台の灯りに鈍く照らされながら、向かい合った。
陳平は、言った。
「なにぶん、私は楚軍の皆様の前に堂々と出ると、殺される身でありますので。」
亜父は、言った。
「当たり前だ。この、裏切り者。」
亜父は、厳しい表情をした。
陳平は、平然として悪びれるところがなかった。
亜父は、この策士が自分にあえて接近して来たからには、楚のために受けずにはおられなかった。策に対して策をもって応えることができる者は、楚軍の中に彼より他にいなかった。
陳平は、亜父のそのような思惑を見抜いた上で、臆面もなく今夜乗り込んで来たのであった。
陳平は、話を切り出した。
「亜父。あなただけは、お分かりでしょう。項王は、いずれ必ず、敗れ去ります。」
亜父は、答えた。
「わが王は、力もて恐れられるだけだ。これでは、この国の統治はできない。」
彼は、正直に評価した。
陳平は、言った。
「もう、項王からはほとんど全ての諸侯が、離反してしまいました。彭城で項王が圧倒的な武力を示してから、わずか一年。それで、早くもこの有様です。いま項王は滎陽を攻めていますが、一城にこだわるうちに、周囲はどんどん彼にとって不利となっています― 河北がすでに、漢のものとなったことは、ご存知でしょう?」
このとき陳平の目が、鈍い灯火の下で光った。
亜父は、答えた。
「韓信だな。恐るべき名将を、漢は得たものよ。」
陳平は、元の表情に戻って、話を続けた。
「すでに、漢は天下の三分の二までを、得ているのです。いま、漢王は和睦を望み、天下を二分して統治することを、提案しました。これは、項王にとって救いではないでしょうか?あなたが世を去った後に、項王が生き長らえる道を、作られておくべきではないでしょうか、、、?」
陳平は、亜父范増の命がもう長くないことを、見て取っていた。
それは、亜父本人もまた、己について知っていることであった。
それで、陳平は、亜父の果てていくべき心を、揺さぶった。
亜父は、しばし無言であった。
彼は、静かに答えた。
「― このこと、我は心に聞き、天に任せなければならぬ。」
彼は、一切の私心を取り除いて、わが王に道を示さなければならないと思った。
それが、やがて尽きていく彼の、わが王への責務であると思った。
亜父は、陳平に対して、明日の漢使への返答を待てと言った。
彼は、明日の席で、項王に考えた末を進言するつもりであった。
陳平は、微笑んで亜父に拝礼し、退去の辞を述べた。
しかし、彼の両の眼の奥は、老人の真意を見抜かんとして、ぎらついていた。
亜父は、無言で思いに沈んだ。
(わが王の、ために、、、)
彼の思いは、ただそれだけに、尽きていた。
(わが王のために、いかに進ませるのが、彼の天命なのであろうか、、、)
やがて、日が明けた。
項王は、再び漢使の随何を、迎え入れた。
随何は、謹んで言上した。
「大王。どうか、両国共存のご返答を、頂きたくございます、、、」
項王は、何か言おうとした。
すると、昨日と同様に後ろに控えていた亜父が、前に出て発言した。
「漢使、、、漢王に、伝えよ。」
随何は、はっとしてうなずいた。
亜父は、言った。
「この場に及んで、漢が和睦を提案して来たのは、漢が追い詰められた証拠である。滎陽は、間もなく我が陥とすところとなるであろう。漢王と我が大王は、倶に天を戴かざる宿命なのだ。直ちに立ち戻って、最後は潔く戦場で決戦して死ぬるお覚悟を決められよと、申すがよい!」
項王は、目を見開いて亜父を振り向いた。
亜父は、落ち着き払って、項王に問わず目で語った。
(漢王を、倒すこと。それが、あなたの唯一進むべき、道なのです、、、!)
項王は、彼の目を読み取った。
彼は、もう何も言わなかった。
随何は、驚愕して言葉を継ぐことが、できなかった。
漢の持ち掛けた和睦の案は、こうして一蹴された。

          

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第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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