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二十 、、、再び、離間策。(2)

(カテゴリ:背水の章

和睦の提案が付き返された漢軍は、いよいよ重大な局面に陥った。

滎陽城内の陣営に、主だった武将や官吏たちが、集められた。
その中には、もと西魏王の豹をはじめとして、漢に攻められて降った諸侯たちの顔もまた、見ることができた。彼らは、再び離反しないように、この城市で漢王と共に楚と戦うことを、余儀なくされていたのであった。
漢王は、居並ぶ者どもに向けて、言い放った。
「この場に及んでは、うろたえても無意味よ。楚と、決戦あるのみだ。」
諸将の間に、緊張が走った。
漢王は、演説した。
「滎陽は、何としてでも守る。死ぬ気で、戦え。死地に追い込まれた漢軍の強さを、楚軍の奴らに見せてやるのだ!」
周勃が、声を挙げた。
「背水の陣って、やつですか?― 最近、流行りの?」
彼は、何とか暗い場を盛り上げようとして、少し戯(おど)けて見せた。
背水の陣の勝利は、この滎陽城中でも将兵の間で、噂の種であった。周勃は、最近口端に上る時事から、すかさず話題を選んだ。
しかし、漢王は笑うどころか、すさまじい顔を戯けた配下に向けた。
「― 黙れ!」
彼は、周勃を大声で一喝した。
周勃は、主君の勘気を受けて、縮こまった。
白けかけた場に、軍師の陳平が話し出した。
「楚軍の背後では、彭越軍が我がために活動を続けている。彼の軍は楚の補給を常に脅かしているために、楚は長く戦えば戦うほどに不利となるだろう。我らも、ここが力戦のしどころである。」
本音を言えば、漢は彭越に弱みを見せたくなかった。
彭越は、貪欲な野人である。
こちら側が弱り目と見れば、報酬の値をどんどん吊り上げて来るだろう。調子に乗らせないためにも、漢は頑張る姿勢を見せなければならなかった。
陳平は、言った。
「滎陽は、棄てることができない。諸君は、それを心せよ。」
漢王は、どかりと巌のように座り込んで、軍師の言にうなずいた。
諸将百官は、漢王が不退転の決意であると思って、力戦を誓うより他はなかった。
軍議は、悲壮な興奮の中に終わった。
すでに、夕刻であった。
漢王は、自分の居室に戻った。
城内の広壮な一角を占める、王のための行宮(あんぐう)であった。
近侍の郎や女たちが、平伏して王を迎えた。
王は、命じた。
「暗いな、、、灯りを持て。」
いつもならば、戻って来た後には女たちに命じて、足を洗わせて汗を拭かせる手順であった。
しかし、今日の漢王は、一台の燭(しょく)を持って来させて、自ら奥に進んで行った。
「誰も、通すな。」
漢王は、近侍の郎や女たちに申し付けて、奥の間に入った。
夕闇が迫って来て、室内は暗かった。
彼は、暗い足元を試しながら、一番奥の上座に辿り付いた。
目の前には、一人の男がすでに控えていた。
漢王は燭を置いて部屋を照らし、上座に座り込んで男に話し掛けた。
「― 逃げる策は、整ったか。」
灯りに顔を浮かび上がらせた男は、軍師の陳平であった。
陳平は、答えた。
「若干の犠牲者が、必要です。この行宮から、女たちをニ千人。」
漢王は、言った。
「やむをえぬな。俺が手放したくない妾の外は、全て置いて行こう。」
陳平は、続けた。
「それから、大王の配下より、二人。一人は、項王への、囮。もう一人は、残る諸侯どもへの、監視。」
漢王は、言った。
「その人選は、俺に任せろ。」
陳平は、言った。
「それがしは、犠牲者から外して下さい。それがしは、軍師として大王の側に仕え続けなければなりません。」
漢王は、鼻を鳴らした。
「ふん。」
陳平は、言った。
「― 一つ、やって置きたいことがあります。」
漢王は、聞いた。
「何を。」
陳平は、言った。
「亜父范増を、項王から引き離したく思います。」
漢王は、聞いた。
「なぜ。」
陳平は、言った。
「項王の軍中で、調略の策に思いを巡らすことができるのは、亜父だけです。大王と項王は、一対一で戦うならば、互角。しかし、一対ニとなれば、大王に勝ち目はありません。」
漢王は、軍師の言葉に、しばし考え込んだ。
「む、、、」
陳平は、説明を続けた。
「敵の敵は、味方。この合従外交の原則を、取ることができる狡猾さを持った者は、項軍中に范増しかいないのです。ゆえに、何としても除かなくてはなりません― 亜父が河北からの合従の誘いに応じたら、もう手遅れなのです。」
漢王は、軍師の意図を知って、うなった。
「小才子よ。お前は、勘繰り過ぎだ、、、」
陳平は、真剣であった。
「ならば大王は、我が勘繰りをお見過ごしになられますか?」
向かい合う両者の間に、しばしの間言葉が絶えた。
漢王のやや荒げた息遣いが、燭の膏(あぶら)が燃える音の合間に、聞こえるばかりであった。
やがて漢王は、声を出した。
「亜父范増を、除く策、、、お前に、一任する。」
陳平は、主君の了承を受けて、平伏した。
彼は、言った。
「― 直ちに、離間策を始めます。」
陳平の脳裏には、いま韓信の側にいる謀士の蒯通があった。
彼は、蒯通のことを、最も恐れていた。
(蒯通と亜父ならば、結ぶ。しかも、遠からず。いや、蒯通のことだ。もう手を回しているかも、しれない!)
陳平は、先日亜父と会見したとき、このままでは両者が合従へと飛躍する時が近いことを、確信した。彼は、急がなくてはならなかった。亜父には、一人で死んでもらわなければならなかった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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