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二十一 二重の姦策(1)

(カテゴリ:背水の章

やがて、項軍の中に奇っ怪な噂が、流れ始めた。

― 范増、鍾離昧、龍且、周殷らは、項王の将としてこれまで絶大な功績を挙げている。なのに、項王は彼らにいまだ何も、報いていない。彼らは、項王を恨んで、ひそかに漢に通じて楚を分け取りしようと、企んでいる。
誰が、言い出したのであろうか。
あまりにも、突拍子のない噂であった。
楚軍の将も兵卒も、誰一人としてこの言葉を信じなかった。
だが、楚の将兵たちは、昨日聞いたかと思うとまた今日も、同じ噂を耳に聞き取った。
今日もまた、根も葉もない噂だと、一笑に付した。
しかし、また次の日には、前の日よりもっと多くの口の端から、同じ噂が聞こえて来た。
楚の軍中は、恐るべき項王の指揮のもとに、脇目も振り返らず力戦している。
しかし、楚軍を取り巻く周囲については、項王といえども、目を届かせることができない。
軍の後方では、補給の列が続いている。
項王は組織など一向に気にしないが、租税を収めて兵役を割り振る仕事は、なくては戦も続けることができない。
これらのことは、亜父范増が担っていた。
亜父は、軍中に執拗に流れて来る噂を聞いて、疑った。
(これは、反間だ。)
彼は、思った。
(後方に向けて、大掛かりな反間が、放たれている。漢の、しわざだ。)
亜父は、この噂の元が漢であることを、直ちに見抜いた。後方を支える官民たちは、前線の将兵とは違って、項王の戦に疑問がないとはいえない。項王の戦のやり方は残虐であり、しかも長引く戦のために、彼の威光だけでは民の怨嗟を鎮めることが、ますます難しくなっている。亜父は、後方の実情を、よく知っていた。
(漢は、我が背後に手を回して、反間の噂を蒔いたか。しかし、、、なぜ?)
漢は、よもや項軍の柱石らが、項王から離反するとでも、思っているのであろうか。
それとも、項王じたいが噂に動揺して、諸将を疑うことを、期待しているのであろうか。
(もし、そうだとすれば、、、)
亜父は、項王の陣営に向かいながら、考えた。
(、、、漢は、甘すぎるわい。)
彼は、項王の陣営に入った。
中央で、机を前に、項王が座っていた。
凛と真直ぐに立てた背骨は、まるで青銅の作りのようであった。いつもの通りの、覇王の姿であった。
左右には、彼の驍将たちが、囲んでいた。
龍且、鍾離昧、周殷ら、噂される諸将の顔が、あった。
項荘や呂馬童など、項王を支える若武者たちも、その後ろに控えていた。
項王の季父(おじ)の、項伯もいた。
彼は、最近軍中で、ますます影が薄くなっていた。
軍議では取り立てて発言することもなくなり、兵を率いても精彩さに欠けた。彼は、鴻門の会で漢王を助けた過去によって、今や軍中で針の莚の上であった。項王は、目上の親族ゆえに何も言わなかったが、彼を崇める江東の子弟たちは、このおじ上を憎んでいた。
亜父は、項王に一礼して、着座した。
彼は、言った。
「― 最近、軍中で流れる奇妙な噂。あれは、漢の反間の計です。」
項王は、答えた。
「当然だ。」
亜父は、言った。
「漢は、よほどに追い詰められたと見える。見え透いた虚言を、千金を費やしてばら撒いた。ゆえに、一切聞く必要は、ありません。大王も、諸将も、ゆめ疑われるな。」
亜父の言葉は、断固として簡明であった。
項王も、諸将も、彼にうなずいた。
亜父は、者どもの顔を一瞥して、思った。
(陳平あたりの、計であろうか―)
彼は、この計の仕掛けが非常に大きいものであることを、見て取った。おそらく費やされている資金は、千金どころか、一年の籠城に値するほどの黄金が、背後で動いていることであろう。その大胆さは、並の策士ではできない。
(しかし、、、なぜだ。仕掛けが大きいのに、底が浅すぎる。)
亜父は、あっさりと見抜けるほどに稚拙な、この反間の策に、かえって怪しみを持った。
項王も諸将も、噂を無視することに決めた。
しかし、噂は絶えることがなく、ますます頻繁に聞こえるようになった。
亜父は、項王に言った。
「こんなことで、動揺してはなりません。戦って、敵を追い詰めましょう。」
彼は、滎陽城にかつてない規模の襲撃を行なうべきことを、進言した。
項王は、彼に聞いた。
「これも、全てが、漢の策なのか。」
亜父は、答えた。
「そうです。漢は大王の力に及ばないゆえに、策で足元を掬おうと企んでいるのです。」
項王は、言った。
「私は、そのような相手と、決戦しているのか。」
項王は、気鬱な表情に顔を曇らせた。
彼は、姦策ができない。
彼の心は、ねじくれた罠を嫌った。彼の心には、常に詩があった。戦い、歌い、愛することを望む彼は、嘘を付いて敵を落とし込むような、文明の果ての人間が使う智恵のたぐいが、嫌いであった。
亜父は、そのような主君の憂鬱を見て取って、彼に言った。
「だから、漢はあなたのために、倒さなければならないのです、、、今回は、この老骨が、兵を率いましょう。」
項王は、驚いた。
「亜父!、、、あなたは、もう老齢だ。兵を率いることは、無理だ。」
亜父は、かぶりを横に振った。
「それがしも、項軍の一員。姦策を憎み、戦って道を拓くのが、大王に仕える者の責務です。乞う、それがしに、進ませたまえ。」
彼は、鬱に沈む我が王を奮い立たせようと、自らの姿勢を持って、主君にこの世の麗しい花を、見せて贈ろうと思い立った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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