«« ”二十一 二重の姦策(1)” | メインページ | ”二十二 骸骨は帰る(1) ”»»


二十一 二重の姦策(2)

(カテゴリ:背水の章

項王軍の、激烈な攻撃が始まった。

七十を過ぎた老将の范増は、この攻撃を指揮して、どの若い将軍たちよりも、闘志を燃え上がらせた。
すでに、体の水分まで枯れ果てているかのような、この南楚の田舎から出てきた老人に、どこからこれほどの活力が、湧き出るのであろうか。項軍の諸将は、皆が驚いた。
項王から亜父と敬称される男は、滎陽城の包囲の輪を、一歩一歩と狭めていった。
亜父の陣に、項王の季父(おじ)の項伯がいた。
項伯は、亜父に進言した。
「兵法は、囲師は闕(か)くべしと、教えています。あまりにも敵を厳重に包囲するのは、敵を死に物狂いにさせるばかりで、かえって不利ではないでしょうか?」
亜父は、項伯をじろりと見た。
項伯は、彼の厳しい目に、たじろいだ。
亜父は、彼に聞いた。
「左尹(さいん)。あなたは、囲師を闕いて、漢王を逃したいのでありますか?」
項伯は、返答に詰まった。
亜父は、言った。
「囲師を闕くのは、長い戦いの一局面で、損害を少なくするために、行なうべきこと。しかしこの戦いは、我と漢王との全てであって、最後です。いかなる損害を出そうとも、この滎陽で漢王を葬ることが、我が軍の勝利となる。あなたの言葉、聞くわけには参りません。」
そう言って、再び項伯の方を、向かなかった。
項王軍は、必死に守る漢軍を、日に日に圧した。
城の周囲に設けられた塞(とりで)や塹壕は、猛攻に耐えられず棄てられる箇所が、ますます増えていった。
あと、一歩。
あと一歩で、漢は敗れて、漢王は葬られる。
亜父は、勝利を信じて、気力で軍を叱咤し続けた。
ある日、亜父の陣営に、城中から密かに連絡があった。
「― 降伏の交渉を、したい。使者を、送られよ。」
亜父は、その連絡を、陣中で愛用する床机(しょうぎ)に腕を横たえながら、聞いた。
彼は、深く長い、一息をついた。
「漢王、、、ついに、あきらめたか。」
彼は、体の気を抜いてみたい思いに、駆られた。もはや、彼の老体は一刻ごとの緊張が、内なる肉体を崩していく感覚に、さらされていた。
不思議にも、この緊張感のままに突然倒れるのも、一興であるかと、感じることすらあった。
しかし、彼の中には少しの達成感が、生まれた。
しばしこの心地よさを、自分の体に許してみたいような、思いに駆られた。
亜父は、独語した。
「使者として、漢は項左尹を望んで来た、、、恩情を、望むか。」
漢は、使者として、項伯を望んで来た。
彼は、張良子房の旧友であって、漢とつながりがある。ただし張良は、病気療養のためにすでに滎陽城から退去していて、いまの城内にはいない。
亜父は、独語を続けた。
「だが、用心しなければ、ならない、、、城内には、策士の陳平がいる。」
彼が気を安らげるのは、この時までであった。次の瞬間には、漢と陳平の真意を思って、彼の目は再び厳しくなった。
亜父は、控える軍吏に申し付けた。
「大王に、伝えよ、、、漢からの申し出、まずは受けられよ。ただし、その真意には注意すべし、と。」
翌日。
項王からの裁可を受けて、項伯を使者とした楚軍の一団が、滎陽の城内に入った。
使者は、その日のうちには項王のところに戻って報告したと、亜父は伝えられた。
しかし。
やがて、聞こえて来た会見の内容は、亜父の耳にとって、異様そのものであった。
「― これは、どうしたことか!」
伝えられた会見の内容は、このようであった。
項伯らの一行は、まず城内で盛大に迎え入れられた。
にこやかに迎える漢王の宴席は、国使を迎えるための最大の礼儀が、用意されていた。
牛・豚・羊をつぶして肉を振舞い、頭を宴席に飾る。
この太牢(たいろう)の様式は、使者への最大の敬意を表す礼法であった。
すなわち、漢は本気で楚への降伏を望み、臣従を誓おうとしていると、使者には見て取られた。
次々に料理を勧められる使者の項伯に対して、漢王はにこやかに声を掛けた。
「義兄。貴方と再会できたのは、この漢王の望外の喜びです―」
漢王は、かつて鴻門の会に際して、項伯と義兄弟の約束を交していた。
屈託なく微笑む漢王を見て、項伯は思わず目頭が熱くなった。
彼は、言った。
「戦とは、非情です。楚と漢は、鴻門以降長らく、戦い合う運命となりました。ですが、この戦も間もなく、終わろうとしているのでしょうか。大王。あなたはよくぞ、ご決断なさいました、、、」
漢王は、にこやかに言った。
「いやいや、思い切ってご決断なされたのは、あなた側の方だ。これで、長引く戦も決着となる。」
漢王の言葉に、今は項伯も泣いた。
泣きながら、漢王に言った。
「わが楚の決断など、何ほどのことがありましょうか、、、今は、我が甥にして西楚覇王の項籍もまた、大王に寛大な措置を為すでしょうぞ。」
しかし、漢王は言った。
「西楚覇王?項籍?、、、あ奴は、これから虜にする身では、ありませんか!あれが我らに寛大な措置とは、笑止!笑止!」
項伯は、漢王の言葉がよく理解できなかった。
彼は、不審に思って、漢王に聞いた。
「いったい、何をおっしゃっておられるのですか?、、、我らとは、いったい大王と誰のことを、言われているのか?」
漢王は、項伯に丸くした目を向けて、言った。
「何を言う。亜父范増に、決まっているでしょうが!、、、あなたは、亜父の使者として来られて、これから項籍を挟み撃ちにする盟約を取りに、来られたのだ!」
項伯は、そのあまりの言葉に、仰天した。
漢王は、言った。
「これから降伏するのは、項籍である。漢と亜父は、すでに一味同心なのだ。力を併せて暴虐の覇王を撃ち、天下に安寧をもたらす。それゆえに、ここまで使者を祝ったのであるぞ。なに、、、貴公は、項王の使者として参った、だと?それは、聞いていない。それは、許せないぞ。項籍の使者ごときに、太牢など出せるか。おーい!、、、者ども、料理はもう下げろ、下げろ!この使者どもには、豆汁でも与えて、追い返せ!」
動転して、声も出せない項伯の一行らは、宴席からしっしっと追い立てられてしまった。
漢王の傍らでは、軍師の陳平がにやりと笑いながら、始終を見ていた。
以上が、伝えられた城内での始終であった。
亜父は、その始終を聞いて、皺だらけの拳を震わせた。
「漢王は、やはり降伏する気など、全くない、、、しかし!」
あまりにも、破廉恥であった。
亜父は、怒りの余りに、もう少しで倒れてしまいそうであった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章