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二十二 骸骨は帰る(1)

(カテゴリ:背水の章

姦策などに、惑わされまいと、亜父は思った。

漢の打ってきた離間策は、驚くほどにあからさまで、そして呆れるほどに汚かった。
汚辱を嫌うのが、項王の軍である。
亜父も、項王の庇護者として、漢を憎まずにはいられなかった。項王の軍は、汚い漢に決して惑わされてはいけないと、思った。
しかし、惑わされる者は、彼の外にいた。
使者の事件以降、亜父が漢と内通しているという噂は、楚の軍民の将官の間に、急速に拡がっていった。
項王の将兵たちは、若く純粋に過ぎた。
あまりに大胆な嘘を付かれると、それがこの世の嘘であると払い除ける心の複雑さを、持ち得なかった。彼らは、戦士であった。策士では、ない。
亜父は、軍中に拡がる自分への嫌疑に、暗い思いを持った。
彼は、急ぎ項王のもとに立ち戻って、強く弁明した。
「何もかもが、漢の姦策なのです。漢は、我が軍を弱らせるために、この老人を除こうとしているのです、、、我が王よ。あなたまで、この私を疑われますか?」
亜父は、項王に迫った。
項王は、答えた。
「私は、あなたを疑わない。」
亜父は、言った。
「憎むべきは、漢です。彼らは、勝つためにどんなことでもします。嘘を平気で付くのが、漢王という人間なのです。」
項王は、嘘という言葉について、亜父に聞いた。
「― 亜父よ。どうして、嘘を付く漢が、これほどに力を得ているのだろうか。」
亜父は、項王の問いに、答えた。
「この世の人には、二つの種類しか、ありません、、、」
彼は、老いた者が少年に教訓を語って聞かせるような口調で、王に話した。
一方に、嘘を付かず、嘘を信じられない人たちがいる。
一方に、嘘を付いて、相手も嘘を付いていると信じる人たちがいる。
「嘘を付かない人は、だから嘘を付く人に、だまされます。ゆえに、嘘を付く人は、この世界で力を持つのです。彼らは、嘘を付かない人をだまして、勝ち上がります。そして、いったん嘘を付く人が力を持ったならば、今度は彼の周りに他の嘘を付く人たちが、集まって来るのです。もとより、彼らは互いのことを信じていません。だから、力のある者に乗ってだます力を大きくして、儲けようと企むのです。こうして、嘘を付く人の側は、常に肥え太って大きくなっていくのです。」
亜父は、若い項王に、こう言った。
項王は、黙って聴いていた。
掌を前で組み合わせて、老人の一言一言に相槌を打ちながら、聴いていた。まさに、少年のようであった。
亜父は、言った。
「だから、嘘を付かない、付けない人は、生き方を改めるべきなのでしょうか?― いや、そうでは、ないのです。」
彼は、続けた。
「世の中は、残念ながら、嘘を付く人の方が、より多くの力を得ます。嘘を付かない人は、より多くの努力をして、しかもわずかな結果しか得ることが、できません。だがしかし、それでよいでは、ありませんか?」
亜父は、優しい顔付きを、項王に向けた。
彼の主君であって、彼が庇護するべき項王は、情の分かる若者であった。
項王は、老人の言葉に、うなずいた。
「そうだ。それでよい― 嘘を付かない人には、それしかできないではないか?」
亜父は、項王の聡明を、喜んだ。
「この世の半分は、嘘が付けない人なのです。嘘が付けないのに、嘘を付いたところで、もう半分を占める人の狡猾さに、決して勝つことができません。嘘が付けない人ができることは、ただ一つ。そのままに、ひたむきに、生きることなのです。あなたも、そうではありませんか。どうして、あなたが漢王に劣ることが、あるでしょうか!」
かつて彼が、郷里の居巣にいた頃には、このような話を村の年若どもに語ったことなど、一度もなかった。
七十年間、世を拗ねて暮らして来た彼は、人間が嫌いであった。
七十にして風雲を感じ取り、一念を発起して、郷里を飛び出した。つまらなかったこれまでの人生を、一挙に捨てるためであった。
最初に彼が項王に会ったとき、彼はこの不思議な若者のことが、理解できなかった。
項王は、老人がこれまで貯えて来た常識を、はるかに越えていた。
超人的な強さを見せて、老人を驚かせた。またある時は、どうしようもない程の単純さに、老人を歯ぎしりさせた。また彼の中に眠る残虐さは、老人の御せる範囲のものではなかった。
彼の叔父の項梁から、亜父として託されて、爾後彼と共に転戦に転戦を続けた。
亜父は、項王の若さと単純さを矯めようとして、矯めることができなかった。
今、亜父は項王を目の前にしている。
項王は、亜父が最初に会った頃から、何も変わっていない。
それでも、亜父はもう彼について、このあるがままで生きるべきだと、思うようになっていた。これが、項王なのだ。天下を鳴動させる、未曾有の覇王なのだ。
亜父は、項王に言った。
「迷うことなく、進んで漢を倒したまえ。それが、覇王の進む道なのです―」
項王は、人の世にまれな灰色の重瞳を、亜父に向けた。睨み付ければ万人を恐怖させずにはいられない彼の狼の瞳は、このとき子狗のように優しかった。
亜父范増が、項王と親しく話すことができたのは、この日が最後であった。
亜父の体は、もはや崩れ去ろうとしていた。
彼は、再び前線に出ても、意識が朦朧とする瞬間が、たびたび襲った。
もはや、戦い続けることは、不可能であった。
その上に、さらに忌まわしい事情が、聞こえて来た。
後背を守るべき楚国の官吏たちに、項王への叛意が見えた。
実に、最も弱い心は、戦場の背後で不満をつのらせる者たちの中にあった。
彼らの中に、亜父范増が、項王を除くための希望として、にわかに浮上したのであった。
じつに、これこそが、策士陳平が最後に撃とうとした、離間させる対象なのであった。
亜父は項王に忠誠を誓っていようが、楚の国内は項王から離反するべき人物を、求めて探していた。
後方で、亜父がいずれ叛いて戦を終わらせるという噂が、飛び交うようになった。陳平がこれを煽ったのは、言うまでもない。
楚は、裏から崩れようとしていた。
亜父は、自分が国を割る渦中に追い込まれたことを、知った。敵の姦策は、二重三重であった。それほどまでに、敵は亜父を除かんと、罠を張り巡らせていた。しかしその罠に抵抗するための力は、もはや亜父には残されていなかった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章