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二十二 骸骨は帰る(2)

(カテゴリ:背水の章

もう、亜父は前線に立つことは、できなかった。

体は麻痺したように感覚を失い、今ここで陣営に座って、何をしているのかの判断も、付きかねるようになった。
「― そうか。手の者と、会見していたのであるか。」
亜父は、正気に帰って、思った。
彼は、亜父に対して項王を除くべく上書して来た者を、密かに捕らえるべき旨を配下に命じたばかりであった。
「もう、私は戦うこともできぬ。せめて、跡を濁しては、ならない―」
亜父は、独語して、その後にまた意識を混濁させた。
誰かが、面前で話していた。
亜父は、その者の説得に対して、そうだそうだと、うなずいていた。
亜父は、口走った。
「趙が、漢から寝返ると言うのか、、、これで、楚は勝てる。」
面前の者は、言った。
「楚は、一挙に滎陽を陥とされよ。漢王は、逃げることでしょう。手負いの漢王を、韓信が動いて捕らえます。これで、関中に至るまで、天下は平定です、、、」
亜父は、聞いた。
「、、、それは、漢左丞相韓信の、意向であるのか、、、」
面前の者は、答えた。
「韓信を、退けぬ状況に追い込むことこそが、肝要なのです。亜父よ。どうかこの密約を進めたまえ、、、!」
だが、話すことができたのは、ここまでであった。
亜父は、客の前で座したまま、動かなくなった。
亜父は、人と会うことも、もはや叶わなくなった。
彼は後の事を、項伯に任せた。
そして趙からの使者は、項伯を疑って、密約の事を彼に言わなかった。
(この男は、漢に通じる、、、)
密かに亜父の陣に潜り込んでいた蒯通は、交渉の相手が項伯に代わったことを見て、退き下がるより他はなかった。
亜父と、蒯通と、陳平。
三人の策士が、際どい暗闘を行なっていた。
だが、三人のうちで最も老いた者が、一足先に去ろうとしていた。
翌日の、朝。
臥せる亜父のところに、項王がやって来た。
亜父は、項王の前で、目を開けることがなかった。
項王は、座したままで、彼の傍らにいた。
長く長く、そのままであった。
亜父が、目を開けた。
彼は、目の光を感じて、言った。
「夕刻で、あるか― もう。」
夏の最も暑い、日暮れの頃となっていた。
項王は、座ったままで、一日を過ごしていた。
「おお、、、覇王よ。」
亜父は、項王の姿を目に見たとき、残された渾身の力で、体を起こした。
項王は、言った。
「よくぞ、今まで軍を率いてくださった。感謝します。」
彼は、深く頭を下げた。
亜父は、言った。
「もはや、私はあなたの側に仕えることは、できません、、、帰郷して、死ぬことをお許しください。」
項王は、言った。
「亜父よ。あなたまでが去ったならば、私はもはや、誰もいなくなってしまいます―」
亜父は、言った。
「あなたが、私を大事に思ってくださるのか。この世の誰も眼中にない、覇王のあなたが。」
項王は、言った。
「もちろんです。」
亜父は、言った。
「ならば、それだけでもこの消え行く老体は、黄泉に楽しんで赴けるこの世の思い出と、なりましょう。あなたの武勇は、後世までも忘れられることが、ないでしょう。その天才の心に住まうことができたのは、この居巣の田舎匹夫にとって、またとない痛快事です。」
項王は、涙を必死に押さえていた。
彼の若さが、亜父には眩しかった。
亜父は、言った。
「我が王よ。しかし、漢にはこの亜父が怒ってあなたの元を去ったと、宣伝なされよ。それは漢王が、望んだことです。この亜父が項王から怒って去ったと聞けば、あの漢王は手を打って喜び、項王いよいよ組し易しと、心に傲慢が生じることでしょう。その漢王に、存分にあなたの力を、思い知らせてやりなされ。あの男や陳平は、策であなたを陥れようとします。あなたは、力であの者どもに立ち向かうのです。勝負の果ては、天より他に知るところはありません。私は、憂いを持たず、死んでいくことにします。あなたが今後もそのままに進んで、進み尽くすことが、この去り往く老体にとって、最も憂いなきことなのです。」
亜父は、項王の手を取った。
今は、その両人の手の上に、項王の涙が溢れた。
亜父は、微笑んで言った。
「天下のことは、もはやこの老体の出る幕では、ありません。肉体はこの戦場で朽ち果て、骸骨だけを乞うて、帰郷したいと存じます― 大王、後は任せましたよ。」
亜父と項王との間に、夕闇が深くなっていった。

亜父は、楚の官位を全て返上して、車に乗って戦場を去って行った。
郷里の居巣から現れたときと同じく、車に乗った無位無官の老人に、戻った。
居巣へと帰るまでの時も、彼にはなかった。
彭城に着くまでの中途で、亜父范増は死んだ。
世間では、項王に怒ったゆえに背中に瘍ができて死んだのだと、噂された。
しかし、亜父は項王のことを怨んでなど、いなかった。
彼の死は、つまらない人生の老後を思いの他楽しく生きられた満足感で、一杯であった。彼は、軍を離れて、枯れ木のように朽ちて死んだ。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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