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二十三 俺だけが生きろ(1)

(カテゴリ:背水の章

亜父范増は去ったが、楚軍の滎陽城への攻撃は、いささかも衰えない。

今は項王が再び陣頭に立って、漢軍を追い込んだ。
漢王を追い詰め、そして倒すことは、楚軍全ての執念となった。
敖倉と結ぶ甬道(ようどう)は、すでに破られてしまった。
滎陽には漢の将兵に加え、王の行宮に詰める官吏や女たち、それに漢が降した諸国の王候たちまでが、詰め込まれていた。
彼らは、一日城内に留まるだけで、食を消費する。
もはや、残された食の量を計算してみれば、あと一月生き長らえるかどうかで、あった。
かといって、この大人口を楚軍に見つかることもなく逃すことは、全く不可能な事と知れた。
漢は、最終的な決断を下した。
七月の朝、日の明けぬ時刻。
まだ暗い行宮に、漢王の命により、一人の将軍と一人の高官が、招集された。
将軍の名は、紀信。
かつて、鴻門の会で、漢王を守って項王の陣営に赴いた一人であった。
高官の名は、御史大夫周苛。
周苛は、いとこの周昌と共に、漢王の沛での旗上げ以来の家臣であった。漢王の出世と共に、これまで謹直の能吏として漢王を支えつづけて来た。
二人が通された控えの間に、軍師の陳平が現れた。
「奥で、大王がお待ちです― 紀将軍、来られよ。」
陳平は、まず紀信を、奥の間に誘い入れた。
「御史大夫は、しばし待たれよ。将軍との話が終った後に、参りませ―」
陳平は、周苛に告げて、紀信と共に奥の間に消えた。
奥の間には、すでに漢王が座っていた。
「平伏の礼などは、よい、、、もっと、近くに。」
彼は、かしこまる紀信を、手で招き寄せた。
それから、漢王は将軍に対して、諄諄と話し出した。
― 済まぬ。今夜、余の身代わりとなってくれ。
紀信は、漢王から今夜に行なう重大な決意を、打ち明けられた。
紀信が命じられたことは、これからこの行宮に留まって、秘密の作戦の指揮者となることであった。
漢王は、紀信の手を取って、言った。
「お前の家族は、末代まで漢が養うだろう。漢のため、天下のためだ。済まぬ、済まない、、、」
漢王は、涙を流した。
紀信は、漢軍で最も単純な武将であった。
単純に、漢王を信じ、彼を君主として崇めていた。
紀信は、今日初めて漢王から優しいねぎらいの言葉を、掛けられた。普段の彼の主君は、倣岸不遜を絵に描いたような、野人であった。これまでの、人を人とも思わぬ主君の振る舞いと、今手を取って涙まで流す親しさとの落差に、紀信の心は震えた。
紀信もまた、感激のあまりに、いつしか涙を流していた。
彼は、声を詰まらせながら、漢王に言った。
「臣は、これまで大王のために、何一つはかばかしい功績を挙げることが、出来ませんでした、、、その臣に、大王は大役を仰せつかった。こんな嬉しいことは、ございません!」
主従は、二人して泣いた。
涙の声は、周苛が残る控えの間にまで、漏れ聞こえて来た。
やがて、陳平が、再び奥から顔を出した。
「次に、御史大夫― 通られよ。」
周苛は促されて、陳平に従って奥に進んだ。
漢王が、座して待っていた。
紀信は、すでに今日これからの任務のために、勇躍して去った後であった。
「― 入れ。」
漢王の声は、冷たかった。
ついさっきの涙声は、どこかに置いてしまっていた。
周苛は、主君の変わり身の早さに驚きもせず、御前に進んで平伏した。
漢王は、言った。
「この俺がお前を選んだのは、これから申し付けることが、最も難しい役目だからだ、、、凡庸な武将どもでは、決してできぬ。」
周苛は、答えた。
「― それがしは、沛以来、大王に従って参りました。大王と共に漢の創業をつぶさに見た一人として、それがしの命は漢と一体でございます。たとえそれがしが戦場に果てたとしても、我が親族の昌が、引き続き大王に仕えております。どうか、それがしを憐れんで、昌のことを今後重用してくださいませ。」
漢王は、すでに己の役目を分かっている周苛の聡明を喜び、にやりと笑った。
漢王は、彼に為すべき任務を伝えた。
漢王は、周苛に言った。
「今夜の役目などは、突っ立っていればよいだけだ。あの能無しで、十分に務まる、、、しかし、苛よ。お前の役目は、能無しではできない。」
周苛は、主君の言葉に喜びもせず、平伏して承った。
漢王は、言った。
「お前は、俺がいなくなった後、滎陽の守備の全権を握る。この城市で、一兵卒が尽きるまで戦え。」
周苛は、平伏したままで、言った。
「、、、大王の本音を、申し上げましょう。」
漢王は、言った。
「言ってみろ。」
周苛は、言った。
「漢以外の諸侯は、将兵もろとも、ここで全部死ねばよい。その方が、漢のために好都合だ。」
周苛は、顔を上げた。
彼の漢王に向けた視線は、厳しかった。
返す漢王の視線もまた、厳しかった。
だが、漢王の表情は、笑っていた。
彼は、言った。
「やはり、お前は能無しではないな。」
周苛は、軽く目を伏せた。
漢王は、付け加えて言った。
「― だが、お前だけは、死ぬ必要はないぞ。」
周苛は、それに答えることもなく、再び平伏した。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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