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二十三 俺だけが生きろ(2)

(カテゴリ:背水の章

今夜の作戦の内容は、以下のごとくであった。

行宮の女二千人に甲(よろい)を負わせて武装させ、兵卒に偽わらせる。
紀信は、王の乗用車である黄屋車(こうおくしゃ)に乗り込み、漢王を偽る、
薄暮の後、戦場がよく識別できなくなってから、偽の漢王軍は城の東門から出撃する。
楚軍の目が東門に集中した隙を突いて、本物の漢王と少数の車騎だけが、城の西門から脱出する、、、
狡猾、かつ残酷な作戦であった。
「漢の諸将高官は、行宮に集まるべし―」
夕刻になって、軍師陳平から、各人に伝えられた。
夏候嬰、樊噲、周勃、廬綰ら漢の重鎮たちが、行宮に急いだ。
中尉の周昌もまた、招集された中にいた。
彼らは、本日ついに大王が最後の決戦に出るという報を聞き、驚き恐れて駆け付けたのであった。
彼らは、いよいよ主君と共に討ち死ぬのかと、悲壮であった。
だが、行宮の奥に通された彼らに告げられた内容は、これより西門から逃げ出すという、勇ましくもない結末であった。
「いまだ城内には、諸侯と兵卒が残っている。彼らに、これからのことを知られてはならない。諸将高官は、大王と共にこのまま関中まで、突っ切るように―」
漢王の隣に控える陳平が、各人に申し渡した。
各人は、沈痛な面持ちで、聞いていた。
漢王の別の隣には、周苛が控えていた。
彼は、漢の高官の中で一人だけ城内に残る役目を、仰せつかっていた。
周苛は、言った。
「項楚との戦は、この滎陽で終わるわけには、いかない。漢は、いつか必ず項王に勝つだろう。諸君は、漢王の股肱として、何としてでも生き延びるのだ。」
彼は、全てを覚悟して、毅然たる表情で各人を見回し、叱咤した。
彼は、中尉の周昌にも目を向けた。
周昌は彼のいとこで、彼と同じく沛の旗上げ以来、漢王に付き従って来た。
だが周昌は、彼のことを直視できず、うなだれるばかりであった。
「以上だ。もう、時間がない。諸将高官は、直ちに逃げる用意をせよ。夏候嬰は、俺の馬車を操れ。廬綰、樊噲は、俺の馬車に陪乗せよ―」
漢王は、そう言い残して、席を立った。
もう、漢王の股肱たちに、逡巡する猶予は与えられなかった。
残る役目の周苛に、周昌が声を掛けた。
「これが、最後なのか、、、苛よ。」
周苛は、いとこを誘って、彼と最後の話をしようと、衆の輪から離れた。
二人きりとなった周昌は、周苛に言った。
「大王は、、、大、王、は、ひどすぎる。」
周昌は、どもる癖があった。沛の時代からの、ことであった。
周苛は、若い頃から変わらない彼をいとおしんで、彼の肩をとんとんと叩いた。
周昌は、言った。
「あの人は、仁君でない。」
周苛は、嘆くいとこの言葉に、首を横に振った。
彼は、言った。
「だがあのような君主でも、彼以外に天下に太平をもたらす希望は、ない。彼だけが、この乱れた世に勝ち残る力を、持っているのだ。それを、我らはずっと見て来た。彼が選ばれたのは、もはや人間の為すことではない。天が何を考えているのか、私は知らない。だが私は、漢王のためではなく、天下のために、ここで命を捨てる、、、昌。後は、頼んだぞ。」
「苛よ、、、」
周昌は、ううと泣き叫んだ。
周苛は、軒先から見える夕空を、見上げた。
「沛から、ずいぶん遠くに、来てしまったものだ―」
暮れ迫る夏の夕空は澄み渡り、雲は吊るしたように動かなかった。
だが、空の下の世界は、いまだ戦に乱れ続けている。いつになったら、人間たちは戦に倦んで、これを止めるのであろうか。
今、彼らは、漢王の行宮の一室にいた。
外では、行宮の女たちを使って、今夜の偽軍が慌しく編成されていた。
二千人の妾たちに、にわかに甲(よろい)が配られて、武器が手渡された。
彼女らにもまた、これからの役目については、何一つ告げられることがなかった。ただ、合図があれば進めと、告げられただけであった。
女たちの群れの中から、何人かの姿が取り除けられていた。
大王の最も深い寵愛を受ける戚氏がいないのは、当然のことであった。
管氏、趙氏、薄氏の三人は、西魏王の後宮から接収された、妾たちであった。
三人は、今日の午後になって、他の漢王の身辺に仕える多くの妾たちから、引き離された。別室に待機させられた彼女たちは、不審に思った。
管氏は、言った。
「― これは、何かあるんだよ。」
彼女は、勘が鋭かった。
趙氏は、蒼ざめていた。
「ひょっとして、大王といっしょに、殉死させられるとか?」
管氏と趙氏は、すでに漢王の夜伽の順番の中に、入っていた。寵姫は、主君が死ぬときには殉死する。それを、世間では婦徳などと称して、賞賛する。寵愛されたからには、覚悟せよとでも言うのであろうか。
「いやだ!」
まだうんと若い趙氏は、正直に叫んだ。
薄氏が、うろたえる彼女の手を持った。
「考えても、もう致し方ありません― 天に、任せなさい。」
管氏は、落ち着いたままの、彼女を見た。
「あなたは、哀れだね、、、まだ大王から、そんなに呼ばれてもいないのに。」
三人は、ただただ泣いた。
生きることも死ぬことも、君主の妾たちには、選択の道など与えられていなかった。ただ、政治とか軍略とかいう、人間を手駒として扱う世界の、なすがままであった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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