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二十四 勝たなければ(1)

(カテゴリ:背水の章

日が落ちて、遠くの情景がよく見渡せなくなった頃に、滎陽城の東門が開いた。

項王の軍には、城内から伝えられてあった。
― 本日、漢王自ら戦場にて決戦すべし。楚軍は堂々の陣を張り、勝負せよ。
報を聞き、城外で楚軍は待ち構えていた。
やがて東門から、確かに甲(よろい)に身を固めた兵卒が、隊伍を組んで現れた。
その中央には、華麗に装飾された、黄屋車があった。
犛牛(からうし)の尾を取り付けた旗印が、車の左方に高々と掲げられている。これを、左纛(さとく)と言う。君主が親征する車であることを、示している。
兵卒の展開が済み、両軍の間合いが取られた後。
楚の強兵が、一斉に襲い掛かった。
戦闘は、一方的な殺戮であった。
当たり前で、ある。
だまされたことに楚軍が気付いた時には、二千人の偽兵はことごとく斬り殺されていた。
楚の健児たちは、自分たちが斬り捨てた兵卒の正体が、ただの宮妾であったことを知って、愕然とした。
捕獲された黄屋車が、乗り込んだ主人ごと、項王のもとに届けられた。
項王は、車の中から出てきた男を、怒りに打ち震えながら、睨み付けた。
「漢王は、どこだ、、、!」
紀信は、項王のあまりに恐ろしい目を直視しようとしたが、本能がすくみ上がって、目をそらした。
それでも、覚悟した彼は、言った。
「もう、逃げた後だ。」
この戦のために、包囲する兵卒はみな、城の東側に移っていた。
そのわずかな隙に、漢王と股肱たち、それに王に選ばれた女たちは、夜陰に紛れて遁走してしまった。
紀信は、火あぶりとなった。
項王は、漢王の卑怯な策に拳を振り上げて、目の前の机を粉々に砕いた。
「これが、漢王なのか!、、、劉邦とは、このようなことをする、男なのか!」
彼を分別ある大人として、心の底で敬して来た自分が、愚かであった。
項王は、死んだ叔父の項梁の代わりを、漢王に見ていたのかもしれない。
だが、漢王は、項梁とも、亜父范増とも、まるで違った。
彼は、大人の最も汚らわしい部分を見せ付けられたような心持ちがして、荒れに荒れた。
彼の乱心を見かねて、呂馬童が近寄って、言った。
「漢王は、君主なのです、、、策を用いるのは、君主として、当たり前のことです。」
項王は、振り向いた。
彼の目には、涙があふれていた。
「私は、こんな汚い策など、使いたくない!、、、姦策を使うぐらいならば、私は王などになりたくない。騅を駆って、ただ一人で進みたい。一人で進んで、そして、果てるのだ!」
呂馬童は眉をひそめ、しかしなだめる声で、主君を諌めた。
「あなたは、すでに万軍の長、覇王なのです。楚は、あなたの力が作りだした、国なのです。決して王を捨てるなどと、仰せられるな、、、」
彼は、どこまでも正直な彼の主君を、憐れんだ。しかし、それでは漢王に勝つことはできないとも、思った。
同じ頃、漢王の一行は滎陽から遠く離れて、隣接する成皋(せいこう)に向けて落ちて行った。
車に乗せられた管氏・趙氏・薄氏の三人は、車内で囁(ささや)き合った。
「― 逃げた?」
「― 逃げている。」
「― 他の子たちは?」
「― 分からない。」
「― でも、あの戚氏も逃げている。ひょっとして、私たちは選ばれたのかも、、、」
もしそうであるならば、嬉しかった。
二千人いた妾の中で、いま漢王と共に逃げている女は、ごくわずかであった。
だから、嬉しいはずなのに、三人はなぜか、また涙が溢れて来た。
三人は、止まらなく流れる涙の中で、言い合った。
「― 残された子たちは、どうなったんだろう、、、」
「― 振り返っても、憐れんでも、どうにもならない。」
「― だから、今しか泣くことが、できない、、、」
「― そう。死んだら、おしまい。」
「― 主上に飽きられても、もうおしまい。」
「― ほんのわずかの時しか、私たちには許されない。この世は楽しいから永遠に生きたいなんて、誰が言ったんだろう?」
「― この世で楽しく生きるためには、うんと多くの人を踏みにじる。それが、この世の掟、、、そうなんだろうか?ねえ、そうなんだろうか?、、、」
急ぐ車中は、激しく揺れた。
暗闇の中を、車馬の一行は進んで行った。
漢王は、成皋の守備を固めた後で、関中に戻るつもりであった。関中に戻れば、丞相の蕭何が働いて、再び兵を整えるであろう。
「彭越と、黥布を使うか、、、仕方がない。」
漢王は、車の座で独語した。彼は、自分の国が勝つために、人の涙など気にしている暇はなかった。
こうして、滎陽城は、次の日の朝になると、主君が逃げ出したことを知った。
取り残されて哀れなのは、諸侯たちであった。
もと西魏王の豹が、いきり立った。
「見捨てられた!、、、可悪(おのれ)!寝返ってやるぞ!」
豹は、周囲の者たちに向けて、あからさまに漢王を批判した。
残余の将兵を統率する周苛の耳に、豹の言葉が伝えられて来た。
その日の、午後。
諸侯たちが、周苛の前に招集された。
周苛が、現れた。
右手には、生首をぶら下げていた。
彼は、首を諸侯の前に据え付けて、言った。
「裏切る者は、かくのごとし― ここで、戦え。」
諸侯は、斬られた豹の首を見て、震え上がった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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