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二十四 勝たなければ(2)

(カテゴリ:背水の章

河水(黄河)の南では、にわかに戦線が動き出した。

漢王が滎陽から逃げて、関中に後退したことは、修武に陣を敷く趙軍にも、伝えられた。
韓信は、漢王のにわかな撤退のことを聞いて、顔を曇らせた。
「やはり、滎陽にはいられなかったか―」
趙軍は、夏の間ずっと修武に留まっている。
この間、漢からは兵卒を送る要望が続けられただけで、趙軍への出馬の依頼はなかった。
結果は、籠城に耐えられなくなっての、遁走であった。
韓信は、思った。
「楚軍は、強い。項王は、真の覇王だ。やはり、一撃がなくては、項王の楚の勢いを翳らせることが、できないだろう。だが楚軍に、一撃を与えることができるのは、、、」
韓信は、空を眺めた。
後ろから、声がした。
「― 国士無双が、動くのです。」
韓信は、はっとして振り返った。
蒯通が、彼の後ろにいた。
いつものように、無表情に立っていた。
韓信は、彼に言った。
「蒯通、、、ここ最近、お前は何か私に隠していないか?」
蒯通は、首を横に振った。
彼は、亜父范増と密かに会見したことを、告げなかった。
(、、、もはや、亜父が死んだ以上、楚と合従する見込みは、潰え去った。)
楚にこれ以上期待ができないからには、彼は率先して楚を叩きのめすべきだと、判断を切り替えていた。己にとって最大の利益を得るのが、縦横家の外交術であった。
蒯通は、代わりに現状について、語り出した。
「最近、事態は急変しました。漢王は単身で逃れ、関中に引き込みました。いずれまた兵卒を率いて立ち戻ることでしょうが、もはや漢王では楚を破る見込みは、ありません。あなたも、そう考えるでしょう?」
韓信は、答えた。
「残念ながら、その通りだ。私も常々申しているとおり、漢王は今こそ諸方の友軍を活用しなければ、ならない。」
蒯通は、考えた。
(だが、敗れ続けの漢王では、いくら彭越や黥布などを使っても、項王の威勢を削ぐことはできない。項王の威勢を砕く兵を起こせる人物は、天下にただ一人だけ。今、ここにいる、、、)
蒯通は、今ここにいる目の前の男を見た。
その男が、蒯通に言った。
「だが、漢王はいっこうに、この趙に援軍を求めようとしない。」
漢王が申し付けて来たのは、守備のために兵を送ることばかりであった。
漢王は、自分でその兵を費消して、このたび滎陽から逃げた。
蒯通は、韓信に言った。
「それは、漢王が自分の力だけで、項王に勝とうと固執しているからです。漢王の意図は、明らかなのです。」
彼は、韓信を見据えた。
韓信は、その不気味なまでに虚ろな目を見たとき、背中に冷や汗が出そうであった。いくら近しくしても、彼の底の深さを計ることは、韓信にできなかった。
韓信は、苦悩する表情を見せて、蒯通に言った。
「確かに、そうなのだ。しかし、、、」
蒯通は、韓信に畳み掛けた。
「もはや漢王は、戦の指揮を根本から誤っています。彼の意向に従うことは、天下のためならず、その上にこの趙国にとっても、怨嗟を生むばかりなのです。あなたが天下と民のことをあの漢王よりもお考えならば、どうしてこれ以上彼の指揮に従う必要が、あるでしょうか?」
蒯通は、困惑する韓信の表情を見て、思った。
(もう、少しだ、、、)
韓信が、漢王からの自立を思い立つだけで、よい。
そうすれば、蒯通は趙王の張耳と手を組んで、彼を第二の覇王として世に送り出すであろう。
韓信ならば、戦で項王に勝てる。
そして、この蒯通がいれば、漢の張良や陳平にも負けぬ。
韓信は、蒯通の暗い虚ろな目を見て、つぶやいた。
「そんなことをして、よいわけがない、、、そうだ、よいわけが、ない。」
蒯通は、言った。
「漢王を、信じてはなりません。」
韓信は、言った。
「やめろ!、、、誰が、聞いているか。」
蒯通は、構わず続けようとした。
そのとき、侍従の兵卒が、来客を告げた。
「賀安楽と申す者が、参りましたが―?」
韓信は、明るい声で、応えた。
「おお!、、、小楽か。通せ、通してくれ。」
彼は、蒯通をかわすことができたので、久しぶりに現れた小楽の来訪を、喜んだ。
蒯通は、内心舌打ちしながら、退席した。
入れ替わりに、小楽が陣営に現れた。
「お久しぶりで、ございます― 韓子。」
彼は、すでに庶人となって、いったん楚に帰っていた。
再び現れた小楽は、すっかり成長していた。
もはや、少年時代を通り過ぎた、彼の風貌であった。年若い者だけは、確かにこの忙しい時代にあっても、時間を経験していた。
韓信は、彼の手を取って、再会を喜び合った。
小楽は、言った。
「私はこのたび、我が郷里の江東から、韓子の郷里の淮陰までを巡って参りました― 仰せに、従って。」
韓信は、聞いた。
「そうか!、、、楚は、どのようであるか?」
小楽は、言った。
「民は、強いです。戦が続いても、歯をくいしばって生き続けています。早い終戦だけを、願って―」
小楽の伝える話は、韓信にとって、耳に痛すぎる内容であった。
項王の戦は、楚の郷里を甚だしく疲弊させ、兵の損失のために泣かない家とて見当たらなかった。
韓信は、嘆息して言った。
「楚の惨状もまた、この趙と何ら変わるところがない。戦は、早く終わらせなければならない。覇を争うなど、愚かなことだ、、、」
小楽は、彼の嘆きにうなずいて、彼にとって明るい話題を付け加えた。
「淮陰では、林家の方々も、無事でおられました。」
韓信は、声色を明るくした。
「そうか!媼(ばあ)さんも、元気であったか。」
小楽は、にこやかに言った。
「林媼も、阿梅さんも、私が韓子のことを告げたら、涙を流して喜んでおられました、、、」
韓信は、聞いた。
「何か、言っていただろうか?」
小楽は、答えた。
「林媼は、あまりに泣いて、もはや言葉もありませんでした。それで、阿梅さんが代わりに私に言伝てられました、、、」
林媼は、苦しみ過ぎていた。それほど、郷里には悲しいことが多すぎた。それで、出世した韓信のことを小楽から伝え聞いて、心が弾けるように泣き通してしまった。
阿梅が、二人のために、気丈に韓信に対して言葉を伝えた。
― もはや大功を挙げられたあなた様と、私たちは違う世界に住んでしまいそうです。ですが、あなたが困ったときには、どうかこの淮陰での生活を、思い出してください。私たちは、あなたが昔から変わらない心で進まれることを、願っております。
彼女の言葉を伝え聞いた韓信は、深い吐息を漏らした。
「ああ、、、私は淮陰に、いつ戻ることができるだろうか―?」
しばらく二人は、無言の時を過ごした。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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