«« ”二十四 勝たなければ(2)” | メインページ | ”二十五 夢と欲望(2) ”»»


二十五 夢と欲望(1)

(カテゴリ:背水の章

漢王は、関中に戻ったのもつかの間、再び兵を集めて繰り出した。

しかし今回は、南の武関から出て、宛と葉(しょう)の間に現れた。
袁生という謀士が、漢王に説いた策の結果であった。
「― 君王が武関から出られれば、項王は必ず君王を追って南下します。君王は塁壁を深くして守りに徹し、よって滎陽・成皋の戦線を休ませます。その間に韓信にお命じになって河北を鎮定し、かれに燕・斉と連ねさせたまえ。その後に君王が滎陽に戻られても、遅くはありません。楚は備えるところが多くなり、兵力は分かれざるをえず、一方で漢は休んだ後に再戦するのですから、漢が楚を破ることは必然でしょう。」
まことに適確な、進言であった。
すでに、楚よりも多くの勢力を自陣営に引き込んでいる、漢なのである。
漢は、各地に戦線を作って包囲網を敷き、項王の鼻面を引き回すのが、最も良い。
項王は、漢王の首だけを狙っているのであるから、漢王が滎陽のずっと遠くに現れたならば、自ら決戦に赴かずにはいられない。漢王は項王と決して戦わず時を稼ぎ、その間に韓信らの漢の別働隊が、項王の他の軍を削り取って行く。つまり近代兵法で言う、外線(がいせん)戦術を袁生は漢王に薦めたのであった。
漢王は、この策を容れて、自軍を南に出した。
果たして、漢王を追って、項王は急ぎ南下して来た。
さきに漢王と通じて九江に入っていた黥布が、漢王に加勢した。
彼は、自分の党数千人を再び集めて、戻って来た。いずれも、さきに項王に攻められて、散り散りになった者たちであった。
漢王と黥布は、塁壁の専守に徹して、項王の攻撃を防いだ。
項王は、何らの手応えも得ることができなかった。広大な戦場で、行き惑うばかりであった。
その頃、楚の背後を、彭越が襲った。
彭越軍は、南下して下邳にまで現れた。
項声らが指揮するこの方面の楚軍は、彭越軍と戦ったが、ついに敗れた。
彭越は、支軍が倒せるような弱い敵ではなかった。このままでは、楚都の彭城すら、危なくなるかもしれなかった。
項王は、歯ぎしりした。
「、、、私が、行く!」
彼は、彭越を撃つために、東に取って返すことを決めた。
配下の諸将は、大いに懸念して、項王を諌めた。
「どうして、大王が自ら西に東に赴く必要が、ありましょうか、、、?」
だが、そのような配下の諌言を、項王は聞かなかった。
(私しか、勝てる者はいない―!)
楚は、そのことごとくが、彼一人によって作り出された、国であった。
項王という一個の天才の武勇が、歴史の進む道をねじ曲げて、彼のために覇王の座を用意した。
項王だけが、どんな強大な敵でも、打ち破ることができた。
そして項王だけが、集団という匿名の力に抗って、水流を変えることができた。
彼が進まなければ、全ては一幕の夢として、消えてしまうだけであった。
だから、彼は自ら進み、自ら戦った。
西に、東に、南に。
項王は、敵を破った。
彭越軍は、ひとたまりもなく敗走した。
しかし彭越軍は、死んでいない。
盗賊集団の彭越軍にとって、攻められれば逃げるのは、常の戦法であった。
項王が去れば、また息を吹き返すに違いない。
そして項王は、また戦場を去るより、他はない。
彼は、今度こそ、漢王と戦わなければならない。
漢王こそは、この中国の天下で、たった一人彼の武勇にひれ伏さない、不敵な男であった。
その、不敵な男。
彼は、項王が彭越によってきりきり舞いさせられる樣を眺めて、ほくそ笑んだ。
「奴も、これだけ敵が多くては、叩き切れまい、、、勝てる、勝てるぞ!」
漢王は、今さらながらに、自分の勢力が項王よりずっと大きいことを、確認した。
彭越は、漢のために楚と戦う代償として、梁一国を要求して来た。
漢王は、彼の望みを容れてやった。一国で彭越を買えるならば、安いものだと思い直した。兵を貯えているとはいえ、しょせんは、盗賊である。あり余るほどの欲を抱えているが、策略を知るところがない。野望はあっても、その大きさは、漢王と比較にならない。漢王は、大盗賊なのである。
漢王は、黥布を従え、彭越をそそのかして、またも項王の優位に立った。
漢王に、色気が出た。
「よし、、、成皋に進む。」
彼の軍議の席での発言に、諸将は驚いた。
友軍の将として参加していた黥布が、懸念して言った。
「まだ、御身を項王の前にさらすのは、時期尚早というものです。項王の力は、衰えておりません。」
夏候嬰もまた、立ち上がって発言した。
「大王が成皋に至れば、項王は直ちに襲い掛かって参るでしょう。そうすれば滎陽さえも、危なくなります。ここは、彭越、それから韓信に兵を出させて、さらに楚軍を叩かせるべきかと存じます。」
しかし、漢王は、聞かなかった。
「俺がこのままで悠長に待っていれば、そのうち項王は倒れてしまう。それでは、この漢王が楚を倒したことにならぬ。」
夏候嬰は、眉をひそめた。
「大王。それは、、、」
あまりにも、項王を甘く見過ぎている。
夏候嬰は、漢王の心底が見えた。
漢王は、軍事の勝者と言われたがっていた。
彼が自ら兵を率いたこれまでの戦績は、敗北続きであった。
(大王は、誰かのおかげで自分が勝ったと、言われたくないのだ、、、)
そのために、勇躍して出陣する。
しかし、己の都合だけを計算に入れて、果たして強大な敵と立ち向かうことが、できるのだろうか?
冴えない顔を向ける諸将を尻目に、漢王は覇気を隆々と高めていた。
(俺こそが、天下の英雄なのだ、、、見てろ、孺子(こぞう)どもめ!)
彼が孺子と呼んだのは、いったい誰であったろうか。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章