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二十五 夢と欲望(2)

(カテゴリ:背水の章

最近の戦線の動きは、河北の趙でも、当然のごとく話題となった。

修武に置かれた陣営で、趙王に昇った張耳を、趙の諸将が囲んでいた。
趙将の一人が、言った。
「成皋に入った漢王の、戦いのこと。皆様は、いかがに思われるか、、、?」
探るような、低い声であった。
言った将軍は、在席の者たちを見回した。
張耳は、床机(しょうぎ)にもたれ掛けながら、諸将を総攬する位置にあった。
誰も何も発言しないのを見て、王が自らぼそりとつぶやいた。
「漢王は― 血迷った、な。」
王の発言に、諸将の目の色が変わった。
張耳は、続けた。
「項王に、またも正面から戦いを挑もうとしている。自惚(うぬぼ)れも、大概にするべきだ。早晩、尻をまくって逃げ出すことであろう。」
王の発言は、諸将を活気付かせた。
「いったいその漢王に、趙はまたしても合力するべきなので、ありましょうか?」
将軍の一人が、疑問をぶつけた。
「あのような戦下手に、趙国がどうしてこれ以上、振り回されなくてはならないのか?」
別の将軍が、もっと厳しい疑問を出した。
「いったい、漢王は趙に何をしてくれるというのか!、、、趙は、漢の属国にあらず。堂々の、大国であるぞ!」
また別の将軍の言葉は、もはや憤りに近かった。
王を囲む趙将の輪は、次第に熱を帯びて来た。
いったんは漢に敗れた趙であったが、趙王となった張耳は、必ずしも漢の走狗ではなかった。彼は慎重に漢の動向を探りながら、趙人の独立心を挫かずに保つよう操縦していた。思惑あっての、ことであった。いま、趙人の漢王への疑問は、弾ける寸前にまで高まっていた。張耳は、自ら水を差し向けた後、しばし彼らの語るに任せていた。
また一人の将が、張耳に言った。
「漢は、西魏王を見捨てて斬り殺しました。漢王の諸侯に対する本心は、すでに見えたり。働くことだけ命じておいて、要らなくなったら蹴飛ばすのが、漢王なのです。」
隣の将が、声を重ねた。
「それは、盗賊のやり方だな!」
次の隣の将が、雷同した。
「さよう!漢王は、盗賊なのだ。」
雷同の言は、続いた。
「その通りだ。」
「まことに、その通りである。」
「盗賊に、加勢してどうする。盗み取られる、だけだ!」
そうだ、そうだと声を続かせて、陣営の声は、高まる一方であった。
張耳は、そろそろ締める頃だと、思った。
彼は、再び発言した。
「だが― お前たちでは、漢には勝てぬ。」
諸将は、にわかに声を詰まらせた。
張耳は、続けた。
「国と国との関係は、力あるのみだ。わが国は、漢より弱い。だから、負けたのだ。力の無い狗が強い熊に向けて吠え立てるのは、肉塊にされる元であるぞ。」
諸将は、返す言葉もなかった。
しょげる面々を見回しながら、張耳は思った。
(一点、、、ただ、一点のことだけが、足りないのだ。)
すでに、趙の諸将に反漢への機運は、みなぎっていた。
しかし、雑魚をいくら連ねたところで、大魚とはならぬ。
(あの宝貝(バオベイ)は、、、まだ動かぬか!)
彼が目指す宝貝は、いまだに漢軍の将として、留まっていた。
その宝貝つまり左丞相韓信は、漢軍の陣営にあった。
彼もまた、漢王の最新の作戦を聞いて、その拙劣さを嘆いた。
「だめだ、、、大王が成皋に移ったことによって、滎陽は陥ちるであろう。滎陽が陥ちれば、成皋は必ず共倒れとなるしかない。」
項王の神速の用兵は、数日を待たず滎陽、成皋の両城を襲うであろう。
滎陽は、すでに食も尽きて、直ちに陥落するより他はない。
滎陽が陥落すれば、成皋は裸の城となる。
漢王は、成皋で項王の猛攻にさらされることとなろう。
彼の隣には、副将で仮左丞相の、曹参がいた。
曹参は、言った。
「大王に、急ぎ伝えましょう。逃げる用意を、なされよと。」
韓信は、曹参に聞いた。
「仮左丞相、、、大王は、いったい私に、何を期待しているのか?」
曹参は、彼の問いに、答えた。
「漢将として、敵を倒すことです。」
韓信は、返した。
「だが、大王は私の進言を、聞こうとしない。このような戦いでは、趙の国人を納得させることが、できない。私は、行き迷うばかりだ―」
曹参は、答えなかった。
彼は、思い悩む眼前の若い男を見て、思った。
(この男が、ひとたび兵を動かせば、殊勲は間違いない、、、それは、私にすら、分かる。)
ゆえに、彼は君主である漢王の考えもまた、分かった。
曹参は、一人の人間として、この才能ある若者を憐れんだ。
しかし、彼は漢の組織のために、この男を一人で歩ませてはならなかった。
曹参は、思った。
(今ならば、私の目で押し留めることができるだろう、、、だが、彼がいつか自ら一人で歩み始める決意を、なした時には?)
その時には、斬らなければならないだろうか。
漢という、組織の力が。
曹参は、今はそれ以上考えることを、止めにした。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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