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二十五 夢と欲望(3)

(カテゴリ:背水の章

夜。
韓信は、自室で独りであった。

彼は火も灯さず、夕闇が落ちて広がるに、任せていた。
「いけない、、、もう、何も見えない。」
彼は、夜になってしまったことにようやく思いを馳せて、燭台を探した。
しかし、足元がよく見えない。
韓信は、自室で突き転びそうになった。
真っ暗闇の中で、彼は腰を屈めながら、行き迷った。
「、、、月?」
後ろから、ほのかな光が差した。
ようやく、足元が明るくなった。
韓信は、後ろを振り向いた。
しかし、後ろに窓などなかった。
光の元は、人の形をして佇んでいた。
「― 黒燕。」
彼女は、金で飾られた瀟洒な燭台を手に提げて、部屋の隅にいた。
韓信は、声を掛けた。
「暗い、、、もっと近くへ、来ておくれ。」
黒燕は、聞いた。
「私に近づいて、欲しいですか?」
韓信は、答えた。
「ああ。頼む。」
黒燕は、言った。
「いやですよ。あなたは、私を望んでいない。」
そう言って、黒燕は部屋の隅に沿って、歩き出した。
韓信の机は、部屋の中央にあった。
彼女の持つ燭台の光が、中心にいる韓信を巡って、歩み進んだ。
黒燕は、言った。
「望めば、すぐに得られる近さにあるのに― あなたは、手を伸ばそうとしない。あなたは、愚者のようです。あなたは、何を望んでおられるのですか?」
韓信は、黒燕と光を目で追い追い、言葉を聞いた。
黒燕は、答えない男を急きたてて、もう一度問いを重ねた。
「あなたは、いったい何を、望んでいるの?」
韓信は、答えた。
「私は、天下の平定を望んでいる。」
黒燕は、彼の答えに対して、言った。
「― ならば、死になさい。」
韓信は、咽の奥を鳴らした。
黒燕は、言った。
「もうあなたは、淮陰の一匹夫でないのです。あなたの名前は、この国の誰もが知っています。名を挙げた者には、虫たちが近寄って来ます― 毒虫も、また。美しい、夜の蛾もまた。」
燭台の火に惹かれて、一匹の小さな蛾が、迷い込んで来た。
蛾は、火の周りを飛んだ。
「それが、この世の習い。大きな火は、人のわざわい。」
黒燕は、燭台を動かして、蛾にかざした。
蛾は、いぶられて、潰れて落ちた。
韓信は、言った。
「だが、今もまだ、人のわざわいとなる大きな火が、残っている。私がいなくても、火は人を焦がし続けるだけだ、、、」
黒燕は、言った。
「そう。項王は、夢を追って、人を殺す。漢王は、欲をたぎらせて、人を泣かす。あの二人は、正直だよ。自分が人のわざわいである運命を、受け入れている。だから、強いんだ。だけどあなたは、まだじっと座り込んだままだ、、、」
韓信は、声を絞って、言った。
「黒燕、、、もっと、私を照らしてくれよ。」
黒燕は、彼の望みに対して、微笑んで言った。
「私から、歩み寄ってほしい?、、、それとも、あなたからこちらに来る?」
韓信は、言い掛けた。
「それは―」
言葉を選ぶ間も、なかった。
黒燕が、ひらりと飛ぶように舞い、韓信の側に侍った。
闇の中を飛ぶようなその軽やかさに、韓信は驚いた。
近づいた彼女の呼吸する声までが、韓信の耳に入って来た。
彼女は、韓信の耳元で囁いた。
「私は、あなたの側にいるよ。あなたの事が、好きだから。」
韓信は、彼女を見て、言った。
「私は、この世にいても、良いのだろうか―?」
黒燕は、言った。
「あなたの周りに集まって来る虫たちは、何も毒虫ばかりじゃない、、、あなたには、まだまだ為すべきことがある。受けなさい。わが義父は、あなたのために、趙王の位を差し出す用意があります。あなたは、項王よりも、漢王よりも、君主としてふさわしい。天下の平定を望むならば、あなたがその才を使ってやってみなさいよ。まず、進んでみるの。進んで取れば、そこから新しいことが、始まるのだから、、、」
韓信は、下を向いて、物思いに耽った。
黒燕は、彼のそのような姿が、かえって微笑ましかった。義父の張耳や蒯通にとっては、神経を苛立たせる彼の性であったが、今の彼女はむしろ思った。
(欲まみれで人を踏みつける漢王なんかよりも、この世の誰も見ようとしない項王なんかよりも、この人の方がずっと人らしいじゃないか― こんな英雄が、いてもいいじゃない。)
自分は、策略を抜かして韓信のことが好きになっているのかも、しれない。
(、、、少しだけ?)
彼女は、ふと思った。
黒燕は、言った。
「― 漢王には、気を付けるのよ。」
韓信は、言った。
「蒯通も、そのように言う。」
黒燕は、言った。
「いいえ。蒯通も、我が義父すらも、あの男の恐ろしさがよく分かっていない。あの男は、無から欲望だけで這い上がった男よ。」
それは彼女の、鋭い予感であった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章