夜。
韓信は、自室で独りであった。
彼は火も灯さず、夕闇が落ちて広がるに、任せていた。
「いけない、、、もう、何も見えない。」
彼は、夜になってしまったことにようやく思いを馳せて、燭台を探した。
しかし、足元がよく見えない。
韓信は、自室で突き転びそうになった。
真っ暗闇の中で、彼は腰を屈めながら、行き迷った。
「、、、月?」
後ろから、ほのかな光が差した。
ようやく、足元が明るくなった。
韓信は、後ろを振り向いた。
しかし、後ろに窓などなかった。
光の元は、人の形をして佇んでいた。
「― 黒燕。」
彼女は、金で飾られた瀟洒な燭台を手に提げて、部屋の隅にいた。
韓信は、声を掛けた。
「暗い、、、もっと近くへ、来ておくれ。」
黒燕は、聞いた。
「私に近づいて、欲しいですか?」
韓信は、答えた。
「ああ。頼む。」
黒燕は、言った。
「いやですよ。あなたは、私を望んでいない。」
そう言って、黒燕は部屋の隅に沿って、歩き出した。
韓信の机は、部屋の中央にあった。
彼女の持つ燭台の光が、中心にいる韓信を巡って、歩み進んだ。
黒燕は、言った。
「望めば、すぐに得られる近さにあるのに― あなたは、手を伸ばそうとしない。あなたは、愚者のようです。あなたは、何を望んでおられるのですか?」
韓信は、黒燕と光を目で追い追い、言葉を聞いた。
黒燕は、答えない男を急きたてて、もう一度問いを重ねた。
「あなたは、いったい何を、望んでいるの?」
韓信は、答えた。
「私は、天下の平定を望んでいる。」
黒燕は、彼の答えに対して、言った。
「― ならば、死になさい。」
韓信は、咽の奥を鳴らした。
黒燕は、言った。
「もうあなたは、淮陰の一匹夫でないのです。あなたの名前は、この国の誰もが知っています。名を挙げた者には、虫たちが近寄って来ます― 毒虫も、また。美しい、夜の蛾もまた。」
燭台の火に惹かれて、一匹の小さな蛾が、迷い込んで来た。
蛾は、火の周りを飛んだ。
「それが、この世の習い。大きな火は、人のわざわい。」
黒燕は、燭台を動かして、蛾にかざした。
蛾は、いぶられて、潰れて落ちた。
韓信は、言った。
「だが、今もまだ、人のわざわいとなる大きな火が、残っている。私がいなくても、火は人を焦がし続けるだけだ、、、」
黒燕は、言った。
「そう。項王は、夢を追って、人を殺す。漢王は、欲をたぎらせて、人を泣かす。あの二人は、正直だよ。自分が人のわざわいである運命を、受け入れている。だから、強いんだ。だけどあなたは、まだじっと座り込んだままだ、、、」
韓信は、声を絞って、言った。
「黒燕、、、もっと、私を照らしてくれよ。」
黒燕は、彼の望みに対して、微笑んで言った。
「私から、歩み寄ってほしい?、、、それとも、あなたからこちらに来る?」
韓信は、言い掛けた。
「それは―」
言葉を選ぶ間も、なかった。
黒燕が、ひらりと飛ぶように舞い、韓信の側に侍った。
闇の中を飛ぶようなその軽やかさに、韓信は驚いた。
近づいた彼女の呼吸する声までが、韓信の耳に入って来た。
彼女は、韓信の耳元で囁いた。
「私は、あなたの側にいるよ。あなたの事が、好きだから。」
韓信は、彼女を見て、言った。
「私は、この世にいても、良いのだろうか―?」
黒燕は、言った。
「あなたの周りに集まって来る虫たちは、何も毒虫ばかりじゃない、、、あなたには、まだまだ為すべきことがある。受けなさい。わが義父は、あなたのために、趙王の位を差し出す用意があります。あなたは、項王よりも、漢王よりも、君主としてふさわしい。天下の平定を望むならば、あなたがその才を使ってやってみなさいよ。まず、進んでみるの。進んで取れば、そこから新しいことが、始まるのだから、、、」
韓信は、下を向いて、物思いに耽った。
黒燕は、彼のそのような姿が、かえって微笑ましかった。義父の張耳や蒯通にとっては、神経を苛立たせる彼の性であったが、今の彼女はむしろ思った。
(欲まみれで人を踏みつける漢王なんかよりも、この世の誰も見ようとしない項王なんかよりも、この人の方がずっと人らしいじゃないか― こんな英雄が、いてもいいじゃない。)
自分は、策略を抜かして韓信のことが好きになっているのかも、しれない。
(、、、少しだけ?)
彼女は、ふと思った。
黒燕は、言った。
「― 漢王には、気を付けるのよ。」
韓信は、言った。
「蒯通も、そのように言う。」
黒燕は、言った。
「いいえ。蒯通も、我が義父すらも、あの男の恐ろしさがよく分かっていない。あの男は、無から欲望だけで這い上がった男よ。」
それは彼女の、鋭い予感であった。
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