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二十六 勝つのは俺だ(1)

(カテゴリ:背水の章

漢王は、項王を侮っていたのであろうか。

おそらく、そうであろう。
彼は項王を恐れぬほどに不敵であったが、敵の強さを正しく量る目を、持たなかった。
漢王が成皋に入ったという報を聞いてから、項王が再び中原に現れるまで、数日も要らなかった。
彼は、愛馬の騅を駆って、誰よりも先に現れた。
着くや否や、滎陽に留めておいた残余の兵卒を叱咤して、総攻撃を命じた。
「この私に、続け!遅れる者は、斬る!」
滎陽城を陥とせば、その先に漢王のいる成皋城が見える。
「漢王!、、、今度こそ、逃さぬ。私は、お前に必ず勝つ!」
城壁の内から、雨のように弩(いしゆみ)が飛来した。
項王は、盾で防ぐことを禁じ、ひたすら進むことを命じた。
弓を受けて、兵卒は針鼠のようになった。
項王は、倒れることを許さなかった。
進んだ先には、無数の落とし穴が掘られていた。
落ちた穴の中には、鋭利に尖らせた乱杭が仕込まれていた。
項王は、怯まず進むことを命じた。
城壁に辿り着いた兵卒の頭上に、棘(とげ)を生やした巨大な棍が、振り下ろされた。
連挺(れんてい)という、守城武器であった。城壁の上から棍に太綱をくくり付けて振り下ろせば、振り子となって壁下の敵に痛打を与える。弓矢と違って、何度でも振り下ろして、敵を倒すことができた。
項王は、うなりを挙げて打ち込まれた巨大な棍に、あやうく殺されそうになった。
騅の素早い動きが、項王を救った。
彼の周囲にいた歩卒たちは、棍に叩きのめされて、直ちに息絶えた。
大将として、これほど敵の間合いに近づくのは、無謀に過ぎた。
しかし、項王のこれまでの勝利は、無謀をあえて冒して来たゆえに、得られたものであった。
項王は、大音声で叱咤した。
「― 項王、ここにあり!敵兵、我を撃てるか!」
恐るべき声は、晩夏の雷鳴よりも、空気を震わせた。
城内の兵はおろか、城外の攻める歩騎たちまでが、恐れて一瞬手を止めるほどの、項王の気迫であった。

滎陽が陥ちたのは、その日の夕刻であった。
城内は、すでに食も尽きて、意気沮喪していた。
そこに、項王の霊気を受けた楚兵どもが、襲い掛かった。
彼我の勢いの違いが、一日で結果を出した。
あまりの早さに、成皋に入ったばかりの漢軍は、何もできなかった。
これで、成皋は孤立した。
項王は、兵卒を成皋に続々と送り込んで、強烈に包囲した。もう、敵は戦えない。
漢王が成皋に入ったことは、漢をまたも窮地に落とし込んだだけであった。
陥ちた滎陽城の中から、守城の将が、楚軍によって捕らえられた。
周苛と、彼の配下の樅公(しょうこう)の両名であった。
周苛は、項王の前に引き出された。
項王は、彼に聞いた
「周苛、、、漢王の、配下であるか。」
周苛は、うなずいた。
項王は、聞いた。
「お前一人で、守っていたのであるな。逃げた漢王の、ために。」
周苛は、答えた。
「そうだ。」
項王は、言った。
「漢王などは、仕えるに値しない人間だ。人を置き去りにして、自分だけが逃げる。」
周苛は、言った。
「その通りだ。」
項王は、言った。
「ならば、この私に従え。従えば、三万戸の上将軍にしてやろう。」
周苛は、言った。
「答えよう―」
直後、項王の顔が、ひきつった。
周苛は、面前の項王に、唾を吐き掛けたのであった。
項王は、顔を拭い取って、激怒した。
「― 貴様!」
周苛は、言った。
「項籍!、、、武勇で、この中国を治められると思うな!人食いの、虎狼めが。お前などは、漢の敵ではない。禽獣は、速やかに人間の支配に服すがよいわ!」
項王は、怒りに燃えた。
「― 私は、人間だ!」
周苛は、応じた。
「もし人間ならば、お前のような人間は、この世に要らぬ!」
項王は、拳を震わせて、言った。
「どうして、そのようなことを言うのか、、、!」
周苛は、言った。
「俺は、沛のつまらぬ小吏よ。つまらぬ人間だから、お前のような生き方が、心底から嫌いなのだ。せいぜい、強がるがよいわ。いずれ、お前には死だ!」
周苛は、項王を嘲笑った。
項王は、叫んだ。
「― 烹(に)ろ!、、、烹て殺せ!」
周苛は、最後に項王に言い放った。
「だから、お前は亡びるのだ、、、は!は!は!はは!ははは!」
周苛は、引き立てられて行きながら、笑い続けた。
彼の笑う心は、いつしか自嘲に変わっていた。
(高官などに、ならず、、、)
彼は、瞼を閉じて、遠い沛の郷里を懐かしんだ。
(、、、できれば、郡吏のままで、ありたかった。)
周苛と樅公の両名は、烹殺された。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章