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十九 将は迷いて、、、(2)

(カテゴリ:背水の章

張良は、漢王に言った。

「なぜ、不可であるのか。それを、これからお話しましょう、、、」
彼は、漢王の前から、食事用の箸を引ったくった。
それから、彼は箸を一本一本並べながら、漢王に不可の理由を諄諄と説明していった。
その演説は、史書にも収録されて、外交の名論議として後世にも名高い。
酈生の申していることは、理想である。
湯王とか武王とかの、かつて天下を平定した仁愛深き君主が、諸侯に義を示すだけで彼らの力を集めることができたと、思い込んでいる。
しかし、そんなはずがない。ありえるはずが、ない。
正義を他人に押し付けることができるのは、背後に力があるためである。湯王も武王も、圧倒的な武力を持って敵を倒す目途があったから、あえて正義を示すことによって楽に勝つことができた。
今、漢は目の前で項王に勝てていない。それを、天下の万人は知っている。
今、漢は戦争に全力を集めている。そのため、民を休息させて人気を取る余裕などない。
手元に資本がないのに、言葉で他人を動かすことができるなどと思い込むのは、戦を知る人とは言えない。
もし漢王が酈生の進言を受けて印綬を乱発したならば、やがて天下は四分五裂の混沌に陥ちていくことだろう。誰が、今の漢王に従うであろうか。足元を、見透かされるだけではないか。
張良は、今や漢王に厳しい口調を向けた。
「悪口を承知で申し上げますが、今後あの儒者先生の策などは、取り上げる価値などございません。あの先生は、なまじ誠実で弁が立つので、その無能さがかえって有害となるのです。だまされる大王も、大王です。いったい、どうしたことですか!」
漢王は、張良の剣幕に、肩をすぼめるばかりであった。
彼は、おずおずと答えた。
「、、、良い策だと、思ったのだ。そんなに、責めるでないわ。」
張良は、不審であった。
これまでの漢王ならば、酈生の愚策などに心動かすことなど、なかったはずであった。
張良は、聞いた。
「いったいこの策の、どこが良いと思われたのか?」
漢王は、答えた。
「昔の諸侯を呼び出せば、成り上がりの王どもの権威がかすむ。成り上がりどもを、引きずり降ろすことができると思ったのだ。」
張良は、耳を疑った。
「大王、、、あなたが、一番の成り上がり者ではありませんか、、、」
そのとき、張良は気が付いた。
この策に飛びついた漢王の心に、巣食っていた対手。
それが、項王だけではないことに。
漢王は、すねたように言った。
「俺は、こうして戦っていても勝てない。その間に、どいつもこいつもあっちこっちで華々しく勝ちやがる。俺が勝てずに沈む以上は、強い奴の足もまた引っ張ってやる。それが、俺の喧嘩のやり方だ。」
張良は、漢王の言葉に冷気を感じた。
彼は、次の句を言うことができなかった。
漢王が、その代わりに言った。
「だが、確かに子房の言うことは、正しい。俺が、間違っていた、、、気の迷いだったな。印綬の話は、やめにするよ。」
彼は、孺子の籍を呼んで、印綬の作成を取り止めるように、命じた。

こんな一幕があった後、滎陽の籠城戦はさらに厳しさを増していった。
敖倉と結ぶ甬道は、次々に断ち切られていった。
項王軍の兵卒は、川に飛び込んで船を襲い、土を掘り返して壁を下からくぐり抜け、矢を受けても火で炙られても、退くことがなかった。楚兵たちは、一城を攻め続けるうちに、執念に凝り固まった狂気の集団と化していた。
ある日、ついに漢軍は退路までが断ち切られたことが、判明した。
諸将は、蒼ざめた。
城内の陣営に、漢王の諸将が集まった。
夏候嬰、周勃、廬綰など、皆が暗い顔をしていた。
樊噲は、王の禦侮として、傍らに静かに座していた。
彼は、もし漢王に危機が訪れたときには、命を盾にして漢王のために死ぬる覚悟であった。
漢王は、諸将の顔を、見回した。
彼は、吐き捨てるように、つぶやいた。
「、、、能無し、めが。」
諸将は、下を向いた。
誰も、項王とその強兵に、勝つ策を持たなかった。
この要塞での防衛を選んだのは漢王の戦略であったが、もはや限界は近づいていた。むしろ、彼らはここに長く留まり過ぎた。局面を、打開しなければならない時期であった。
漢王は、新しい局面を言った。
「― 和睦だ。」
諸将は、やにわに顔を上げて、聞いた耳がだまされたかのような表情で、主君を見た。
夏候嬰が、声を張り上げた。
「今さら、和睦ですか!、、、そんなばかな!」
これまで、多大の犠牲を費やして、滎陽で戦い続けて来た。
それは、項王を押し止めて、長期戦により倒すための戦略であった。
それを今になって和睦するなどとなれば、これまでの籠城戦は、いったい何だったのか。
夏候嬰のみならず、諸将もまた肯定しなかった。
漢王は、聞かなかった。
「致し方がない。この城市は、もう食糧が足りない。いったん退くためにも、和睦以外に何の道があるか。」
夏候嬰は、内心で思った。
(どうして、こんな危ない道を進むのか、、、)
もっと早く転戦していれば、包囲されることもなかった。
さらに今、漢軍は項王に包囲されているものの、北には韓信の強力な兵がある。援軍を頼めば、よいではないか。
しかし、漢王の選択肢は、今さらの和睦であった。
彼が一方の雄として主導権を握り続けるためには、これ以上強い配下に借りを作るわけには、いかなかった。そのために、彼は、他方の雄と妥協することまで、あえて考えてしまった。

          

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第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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