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十九 将は迷いて、、、(1)

(カテゴリ:背水の章

ここまで、韓信について書いてきた。

韓信の成功は、漢を楚に対して大きく優位に立たせるはずであった。
しかし、楚漢の直接対決の場である滎陽では、漢は項王に圧倒されていた。
天下は、奇妙にも大きな全体図と局地的な戦線とが、ねじれた状況となっていた。
漢は勝っているのに、漢は負けている。
それが、漢王の置かれた状況であった。
もういちど、漢王と項王に話を戻す。この二人が、本来は天下の主役であった。韓信が、現れるまでは。
漢王は、夏の間まだ滎陽の城市に留まっていた。
撤退の進言を撥ね退けての、籠城であった。
「撤退などして、たまるか。俺は、楚と戦うのだ。」
漢王はそう言い続けて、滎陽から動かなかった。
しかし、城市から動かなかったことによって、自分の身すら次第に危くなってきた。項王の攻撃は、日に日に強烈を増して、決して減じることがなかった。勝利のために産まれて来たようなこの軍神の前に、大将が自ら身をさらしていれば、殆(あや)ういのは当然のことであった。
漢王は、自分の室に戻って、食事の時間であった。
女たちに給仕させて、がつがつと食を貪っていた。
侍る女たちは、最近の主君の機嫌を、腫れ物を触るように気遣い恐れた。
主君は、最近明らかに苛立っている様子であった。
項王に対して華々しい勝利を何も得られない自分が、惨めであった。
「手が、汚れた!、、、拭け。」
漢王は、人並み以上に長い、彼の右の手を出した。
薄姫が、慌てて拭いた。
年若い女の手の感触を、白布越しに感じて、漢王はにやりと笑った。
「もっと、丁寧に、、、」
しかし、彼は女が拭き終わったら、またすぐに皿に盛られた豚の足を掴んで弄んだ。女の作業は、一瞬で台無しになった。
王の身辺に仕える孺子(こぞう)の籍が、御前に進んで取り付いだ。
「― 広野君が、謁見を求めて参りました。」
広野君とは、酈生のことである。儒者であり、漢に仕える謀士であった。
漢王は、言った。
「あいつの言葉には、毒がない― 暇つぶしだ。聞いてやろう。」
漢王は、籍に通すように命じた。この後、奥で寵愛する戚姫と愛し合う予定であったが、しばらく時間を取ってやることに心変わりした。
酈生が、恭しく参上した。
「大王。本日は、策を献じに参りました。」
彼は、最近、功績を挙げられずにいたので、何とか名誉を挽回したいと思い悩んでいた。漢の状勢を好転させるために昼も夜も考えに考えて、本日ようやく大王の前に贈る策を持って進み出たのであった。真面目な、人であった。
彼が必死に考えて披露した策は、彼らしい内容であった。
「、、、大王。あなたは、天下の王の王と、なられませ。この乱れた世が、さながら旱天の慈雨のように待ち望んでいるもの。それは、正しい道を示す正しい君主なのです。臣が言、どうか疑うことなさいまするな。」
彼の演説は、いつものように爽やかであった。
夏の暑気すら、しばし散じるような心地にさせて、人を酔わせる名調子があった。
そしてその内容は、全くの儒家流の理想論であった。
漢王は、大いに喜んだ。
「そうか、、、それは、よい策だ。酈生、久しぶりにあなたからよい言葉を聞いたぞ。」
酈生は、主君に喜ばれたことを、自らも喜んだ。
漢王は、言った。
「昔に廃絶した諸国の王家を、俺の名前で各地にいっぱい復活させる。彼らに印綬を与えて、諸侯に戻してやる。天下は、昔の名前でいっぱいになる。」
酈生は、微笑んだ。
「そうです。始皇このかた、世の人は昔から続く名家名族を、あまりに粗略に扱って参りました。下が上に剋(か)つ風潮は、始皇が諸侯を廃絶したときより、始まったのです。よろしく旧の諸侯を元の高みに戻し、天下に秩序を戻したまえ。大王は、天下の規(のり)を修復させた者として、たちまち名声を轟かせることになるでしょう。これが、名分の力によって武力の項王を取り除く、仁君の必勝の策と申すものです。」
しかし漢王が喜んだことは、酈生とちと力点が違っていた。
彼は、独語した。
「いっぱい、昔の諸侯を立てる、、、そいつらは、必ず成り上がり者の支配に、反抗する。各地で、めいめいに蜂起が始まる、、、そうすれば、大きな国も分裂だ!」
彼の笑いには、意地の悪さが込められていた。酈生は、喜んでいて気が付かなかった。
漢王は、暑気が吹き飛んだかのような気分がして、酈生が退がってから後に、命じてまた皿の食事を持って来させた。
いつも以上の量を食って飲み続ける漢王に、また籍が取り次いで来た。
「張軍師が、謁見を求めて参りました。」
漢王は、軽い調子で言った。
「おお。通せ、通せ。」
張良子房が、参上した。
彼もまた、漢王と共に、撤退せず城市に留まっていた。
漢王は、彼に言った。
「― もう、君は関中に戻るがよいぞ。ここに居ると、君の命が縮むばかりだ。」
張良は、言った。
「お気遣い、忝く存じます。じつに、私の最近は体調が優れません。お側に長く侍るためにも、しばらく軍師の用は陳平に任せることにしたいと、存じます。」
彼は、苦痛で美顔を歪めた。
漢王は、彼をねぎらった。
張良は、言った。
「本日は、ご機嫌がいつになくよろしい。だが女性を抱いて喜ぶ、最近の大王ではありません、、、何か、思い付かれましたね?」
張良は、漢王の心を見抜いた。
漢王は、大いに笑って、張良に答えた。
「そうだ。」
張良は、言った。
「よろしければ、聞かせていただけませんか?」
漢王は、上機嫌で酈生の策を、張良に説明した。
張良の表情が、みるみるうちに変わっていった。
張良は、我慢できずに、漢王の言葉を遮って声を出した。
「そのような策を、取ってはなりません!何ということを、為されるのであるか!」
張良は、気力で立ち上がった。
漢王は、叱られた子供のように、縮こまった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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