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十八 功過ぎた者(2)

(カテゴリ:背水の章

黒燕は、韓信に言った。

「いつか、この世には皇帝とか王なんかが要らなくなる時代が、来ればいい。私は、そう思っている、、、」
彼女はそう言って、体を一転させた。
仰向けになって、韓信を上目遣いに眺めた。さらに無礼であったが、韓信は咎めることをしない。女は、分かった上でやっていた。いつしか、二人の間には分かり合える何かが、作られていた。
韓信は、無感動な様子でもう一口の湯を含み、言った。
「無理だ。この世には、王になりたい人間が多すぎる。無位無官の農村の野夫ですら、隙あれば君主に成り上がる野望を隠し持っている。それが、本当のところなのだ。」
黒燕は、聞いた。
「それは、どうして?」
韓信は、答えた。
「人だからだ。残念ながら、人は他人を見下していつか踏み敷いてやりたいという、卑しい望みを隠し持っている。どんな無学な貧民でも、山のように書物を読んだ君子でも、それだけは人間として共通している。君臣上下の差別などは、その賤しい野望を綺麗に言い換えたものなのだ。」
黒燕は、言った。
「そう。だから、この世の人から王になりたいという野望がなくならない限り、王になるための争いは続く。そして最後に勝ち残った王が、力でそれ以外の人間を押し込める。」
彼女は、再び体を転じて、正面から韓信に向き合った。
「だから、どうせ誰かが王になる。王になって、好き勝手やる。あなたが王にならなくて、それで治まるわけじゃないんだよ。まず王になってから、民のことを考えるがよいさ。ね、しごく道理でしょ?」
韓信は、首を横に振った。
「私は、そうするわけにいかない。」
黒燕は、聞いた。
「なんで。」
韓信は、答えた。
「今は、王が相並んで立ち、互いに争うべき時代ではない。私までが割り込んで、天下はどうなってしまうのか。」
黒燕は、口元に笑みを浮かべた。
「― ふふん。あなたは、自分が項王や漢王に決して引けを取らないと、密かに思っている。」
韓信は、飲みかけた湯を、口から吹き出しそうになった。
彼は、ようやく怒って言った。
「黒燕。そのようなことを、言うな!、、、叩き出すぞ!」
韓信は、彼女を追い出そうとして、立ち上がる仕草を見せた。
しかし黒燕は、男の怒りに反応もしなかった。
彼女は、寝た姿勢をやめて、体を上げた。
それから今度はきちりと端座して、韓信が無造作に地面に置いた杯を、柔らかい仕草で引き下げた。
彼女の変化は、韓信の兵法のように一瞬間ごとに自在であった。
韓信は、浮かした腰を、また戻した。
黒燕は、韓信に言った。
「こんな言葉を、ご存知?」
彼女は、言った。

『高鳥尽きて良弓蔵(かく)され、
狡兎死して走狗烹(に)らる。』

韓信は、答えた。
「昔からある、格言だ。歴史の講談なんかで、芸人がよく使う。」
黒燕は、聞いた。
「その意味は?」
韓信は、答えた。
「良い弓は、鳥を獲るためにある。素ばしこい狗は、兔を狩るためにいる。持ち主は鳥を獲って兔を捕らえるまでは、弓も狗も大事に使う。だが、獲物をついに得たとき、持ち主の愛は終わるだろう。」
黒燕は、引き下げた杯を、手繰り寄せた。
それを柔らかい両の手に抱えて、彼女は言った。
「これまでの歴史の中で、いろいろな名将や賢臣が、悲惨な末路に終わりました。どうしてでしょうか?― 君主にとっては、名将も賢臣も、自分の快楽に奉仕させる道具。いつか敵を破り、求めるものを得たとき、君主にとって名将賢臣は、自分と名声を競う新しい敵に一変します。功を挙げ過ぎた臣は、君主にとって恐怖の存在となり、ゆえに自分の快楽を阻む憎悪の的となるのです。だから、君主はこれらを、、、殺す。」
韓信は、彼女の言葉に付け加えた。
「呉の、伍子胥。越の、大夫種(たいふしょう)。それに、楚の春申君、、、秦の商鞅、、、同じく秦の白起に、呂不韋、、、みなが、君主に殺された。越の范蠡(はんれい)、燕の楽毅は、殺される前に君主から逃げた。あの章邯が楚に降ったのも、秦に追い詰められたからだ。」
黒燕は、韓信の博識に莞爾(にこり)と微笑んだ。
彼女は、言った。
「その名前に、付け加えられるのです、、、漢の、韓信が。」
韓信は、息を詰まらせた。
黒燕は、中にまだ湯が飲み残った杯を、持ち上げた。
彼女はそれを、静かに口に運んだ。
韓信は、彼女がゆるりと湯を飲み干す間、冷や汗をかく心地で沈黙した。
飲み終わった後、彼女は杯を脇に置いて、前ににじり寄った。
気付くと、彼女は韓信と鼻を合わせるまでの距離に近寄っていた。
彼女は、囁いた。
「そこまで分かっているならば、自分のことも分かるでしょう?あなたは、いずれ烹られることになるのよ。このままじゃ。」
韓信は、うめくように言った。
「、、、私に、どうすればよいと言うのか。私は、天下から戦乱を絶ちたいのだ。そのために、漢に勝たせなければならない。」
黒燕は、さらに一寸の距離を近づけて、妖しく囁いた。
「自分が殺されては、天下の幸せに意味なんかないね― 賭けてやろう。あなたが今言ったような理想を言い立てることができるのは、あなたの命が続いている間だけだ。私があなたに君主になれと薦めるのは、あなたの命を守るためなんだよ。」
韓信は、彼女に迫られて、座る姿勢を続けることができなかった。
彼は腰を引きながら、しかし何とか抵抗しようとした。
黒燕が耳元で囁くことは、漢王からの離反であった。
自ら王となって、天下を分け取る薦めであった。
しかし、彼にとってそれは、途方もなく自分から逸脱していく道であるように、思われた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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