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十八 功過ぎた者(1)

(カテゴリ:背水の章

修武での滞陣は、一月(ひとつき)を越えた。

暑さが厳しい、季節であった。
冬からこの方、趙では大きな徴発をなるたけ行なわず、民の農作業を優先させた。郷里はようやく一息付いて、夏には収穫を取り戻すことができた。
韓信は、修武で軍を監督しながら、日々を過ごしていた。
「漢王は、まだ滎陽に留まっている。私は、漢王は滎陽から出て、もっと遠くに陣を置くべきだと進言した。そうすれば、項王は攻撃の矛先を変えるであろう。そのようにもっと広い地域を用いて逃げ回れば、滎陽も助かるはずだと申し上げたのであるが、、、進言は、聞かれていない。」
彼の背後には、いつもどおりに蒯通がいた。
蒯通は、言った。
「きっとあなたの進言だから、聞こうとしないのでしょう。」
韓信は、振り向いて問うた。
「私の、進言だから?」
蒯通は、答えた。
「君主とは、そういうものです。」
彼は、それ以上に言わなかった。
彼は、思った。
(この男の影が、漢王を襲い始めている、、、好機。しかし同時に、危機。)
蒯通は、漢王が韓信の巨大な影を持て余し始めている徴候を、見て取った。韓信の功績から言えば、当然の結果に過ぎなかった。巨大な影に気付いていないのは、目の前にいるその本人だけであった。
蒯通は、思った。
(功、君に過ぎたる臣は、殆(あやう)し、、、いつか必ず、決断させなければならない。この男に。)
韓信は蒯通を退がらせて、奥の室に入った。
彼の陣舎は、一月前から何も変えられていなかった。
あの夜に黒燕が飾り付けた美々しい調度の数々も、華やかな燭台も、絹の帳(とばり)も、全て取り払われた。
多くの侍妾たちも、今はいなかった。
― ただ一人だけを、除いて。
「ようこそ、お戻りになられました。左丞相。」
奥の室で、黒燕が微笑んで韓信を出迎えた。
韓信は、彼女が彼の側に留ったままであっても、追い出すことはしなかった。それで彼女は、韓信のもとにそのまま居続けた。
韓信は、座席して言った。
「黒燕。何やら私は、最近気が重い。戦場にいるときよりも、気が重いのだ、、、夏の季節に、こうして城市の中で籠り続けているからで、あろうか?」
黒燕が、湯を運んで来た。
韓信は、受け取って一口飲んだ。
湯の中には焦がした麦が香り付けに入れられていて、鼻に心地良かった。
黒燕が、言った。
「気散じに、一遊びでもなさったらどうですか?あなたの役職ならば、何だってできるでしょうよ。」
彼女は、意地悪く微笑んだ。
韓信は、彼女のこの悪意を含んだ微笑を、もう何度となく受け取った。彼女は、韓信の言葉尻を捉えては、くすぐるように挑発する。
「夏の夕には舟を川に浮かべて、酒を友にして音曲を鳴らす。水辺の宴は、君子の楽しむところです。川辺には芙蓉の花が開き、女たちの笑みがこぼれる。それは人が憂きこの世を晴らす、歓楽の風景です。」
黒燕の言葉に、韓信は答えた。
「今、天下はいずこも戦乱で飢え苦しみ、民は明日をも知れぬ生活なのだ、、、左丞相だからと言って、富貴を楽しむようなことなど、私はできない。」
黒燕は、莞爾(にこり)とした。
彼女はやおら姿勢を崩して、足を後ろに投げ出した。
腹這いになって韓信の前で横たわり、頬を突いて彼を見上げた。
ずいぶんに無礼な、彼女の物腰であった。しかし、韓信は彼女にこのようにされても、咎めることなどしなかった。彼女も韓信の心が分かっていて、床に体を投げ出す仕草などをするのであった。
彼女は、言った。
「殊勝だね。あなたは。」
急に、馴れ馴れしい口調に変わった。
彼女は、座したままの韓信を見上げながら、言った。
「ますます、君主の資格がある。たいていの人間は、いざ富貴の味を知ったら、すぐに民のことなんか忘れてしまうんだよ。」
韓信は、聞いた。
「どうして、人はそんなに弱いのだろうか。」
黒燕は、答えた。
「人だからさ。」
それが、彼女の簡単な結論であった。女は、まだ若い韓信のそのまた半分の年ほどしか生きていないのに、もうこの世の人の相場を見切っているかのような、観察眼であった。
彼女は、言った。
「― だから、始皇帝は人を誰も信じられなかった。可愛そうな、人だったな。」
彼女は、目を閉じた。
韓信は、聞いた。
「お前が、始皇帝を刺し殺したというのは、本当なのか?」
黒燕は、目を閉じながら涼しげに答えた。
「本当か嘘かは、誰にも分からない、、、もう、秦は亡んじゃった。」
黒燕は、言った。
「項羽も、劉邦も、民のことなんか考えていない。自分の、栄光だけさ。始皇帝と、おんなじだ。」
彼女は、目を開けた。
目の前の男に、言った。
「― だから私は、あなたに天下の主になってほしいな。」
韓信は、痙攣したようにかすかに首を横に振った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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