荀子、曰く。
― 上賢は天下を禄(ろく)し、次賢は一国を禄し、下賢は田邑を禄す。富を欲して美を望むのは、人の情である。上に立つ者は寡欲でなくてはならないなどと説教する輩は、人間の性をあるがままに見据えようとしない。人の性は富を欲するがゆえに、財貨の多を愛さざるを得ない。人の性は美を望むがゆえに、西施の肌を悪(にく)むことができない。ゆえに、合理による観察を貫いた碩学の荀子は、位が高くなればなるほど豊かな禄を得る制度は正しい法なのであると、結論したのであった。 漢の左丞相となれば、庶人から見れば雲の上のような位である。 諸国の政治を司る高官ならば、皆が都に広壮な邸宅をしつらえ、室内には華美な調度と車馬と、無数の家人の群れ。美食が並べられる食卓の広さは、丈四方。その料理を運ぶ侍妾の数は、幾百人。これぐらいが国家の権を司る長としては、当たり前の豪奢であった。 いま、左丞相のために、誰かが当たり前のことを、用意しておいた。 彼を迎えた侍妾たちは、とびきりに穏和な女性たちであった。選び抜かれた女性だけが、左丞相の前に進められていた。 韓信は、不意を突かれて言葉を失った。 たとえ戦場で奇襲があっても進退を誤ることはない彼であったが、この仕掛けは心中の情に対する奇襲であった。誰が、仕掛けたのか。 「お召しの袍(うちかけ)を、外されませ。夜のうちに、香を焚き染めて置きますので―」 侍妾の一人が、微笑んで韓信に言った。 彼女の綺(あやぎぬ)が、淡い光に映えて首筋のまわりに明暗を明らかにしていた。かぐわしい香りが、衣裳から立ち昇っていた。首筋の奥には、下着の羅(うすぎぬ)が覗いていた。近寄ればわずかに覗いて見えるのが、想像力を掻き立てる衣裳の仕組みであった。綺羅(きら)の美しさとは、じつにこの首筋を形容した言葉であるかの様であった。 韓信が何も言わぬうちに、後ろに回った三人の侍妾たちが、もう袍を外していた。 「奥には、軽い食事を用意しております。侍妾たちが、謹んで給仕いたします。もしや突然の来客の際にも、ご心配なく。料理人を、手配しておりますので―」 前の侍妾が、優しい声で言上した。後ろの妾たちの六本の腕は、そのまま彼の帯に伸びていった。袍はおろか、上衣まで取り去ろうとしていた。 「ま、、、待て!やめないか!」 韓信は、ようやく声を出した。 慌てて出した声は、怒鳴り付ける大声となって、室に響いた。 韓信は、あっ、、、と思って、口を噤(つぐ)んだ。 しかし、前の女は、気にも留めずにこやかに微笑んだままであった。 女は、言った。 「大人(たいじん)の、仰せのとおりに従います。」 韓信は、彼女に聞いた。 「一体、これは何なのだ、、、誰が、このようなことを用意した?」 女は、答えた。 「左丞相のために、趙国が謹んで用意いたしました。だって、左丞相は趙国の柱石でございますので、、、!」 奥の帳(とばり)が、かすかに音を立てた。 韓信が見ると、ぼんやりと暗い奥が開かれたようであった。 中から、しずしずと人影が進んで来た。 再び、一人の女であった。 彼女は、拝礼して言った。 「韓左丞相、、、お帰りなさいませ。」 彼女は、顔を上げた。 韓信は、女に聞いた。 「― 誰だ。」 女は、答えた。 「趙黒燕と、申します。」 彼女は、笑わなかった。 鋭角な気配を、韓信に対して向けていた。 韓信は、聞いた。 「趙黒燕、、、これは、お前がしたのであるか?」 黒燕は、答えた。 「そうです。」 韓信は、問うた。 「何の、許しがあって!」 黒燕は、答えた。 「国士無双のあなたが受け取らなければならない、境遇なのです。ゆえに天下の男子に相応しい富の、ほんの一部を用意いたしました。お望みならば、いくらでも増やすことができます。」 こう言って、黒燕は始めて微笑んだ。 その笑顔の魅力は、周りの侍妾たちとは異質の妖艶さがあった。 彼は思い出せなかったが、韓信は、かつて彼女に鉅鹿の攻城戦の後で話し掛けられたことがあった。城市を死守した張耳の側にいて世話をしていた不思議な少女が、彼女であった。あれから、さほど多くない回数の季節が巡った。韓信は、その間に変わらなかった。しかしいま彼の目の前に現れたかつての少女は、天下の情勢と同じぐらいに、一変してしまっていた。幼虫が、わずかの間に羽化して、蝶の美しい翅(はね)を付けた。 黒燕は、言った。 「あなたは、まるで市井の匹夫のようです。国士無双が、いつまでも匹夫のままであってはかえって害となります。上に立つ者は、進んで富貴の世界を知らなければ、不知に陥るのです― 賢明なあなたならば、我が申すことがお分かりでしょう?」 黒燕の表情は、再び真剣となった。 韓信は、立ち尽くした。 (これは、、、何かの罠だ。) 彼は、思った。 (撥ね退けるべきか、探って様子を見るべきか―) 彼が思案を巡らせようとしているときに、黒燕が言った。 「ふふ、あなたは罠であるのかどうかと、疑っておられる。だから、はっきり申しましょう、、、これは、罠ですよ。」 韓信は、またも不意を突かれた。 黒燕は、続けた。 「あなたに、国士無双として自覚を促すための、罠なのです。あなたは進んで罠に落ちて、翼を広げなければならないのです。この賤妾は、そのためにあなたの下に参りました―」 そう言って、彼女はしずしずと韓信の目の前に進んだ。 馥郁とした香りは、鼻腔をくすぐる甘さであった。 韓信は、幻惑されそうになりながら、ようやく声を絞り出した。 「とにかく、、、私には侍妾など要らない。焚き染める香も、必要ないのだ。」 黒燕は、うなずいた。 「御心のままに、なさいませ。賤妾の、出過ぎたことでございました。」 そう言って、目を閉じて再びしめやかに拝礼した。 韓信は、彼女に賤妾と名乗られて、背中に戦慄を覚えるようであった。
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