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十七 万歳遊戯(1)

(カテゴリ:背水の章

最近の韓信は、怪しい。

曹参が漢王に伝えたかったことは、それであった。
韓信が遠く離れた別の国で功績を重ねれば重ねるほどに、漢王から離れる力が働く。
曹参は、灌嬰すら韓信に心酔しきっている様子を見て、漢王のために危ぶんだ。
曹参は、言った。
「いまだ項王との決着が付かぬ今は、左丞相の軍略は漢のために必要なこと。しかし御史大夫、大王によくよくご進言しておけ― 見切り時を、お間違えになられるなと。」
灌嬰は、曹参の言葉に身震いした。もう暑い最中の季節にも関わらず、であった。

さて、修武に陣を営んだ韓信は、ここに趙王以下の諸将を集めて、今後の作戦を協議した。
韓信は、言った。
「滎陽の状況は、思った以上に悪い。項王は、やはり恐るべき武将だ。」
韓信は、彼と鄧陵子がかつて整えた城塞を、項王がついに打ち破ってしまったことを知った。彼の軍略も、項王には通用しなかった。韓信は、改めて項王と事を構えることの困難を、思い知った。
韓信は、諸将に言った。
「しかし、漢王は滎陽から退くことを拒んでいる。項王に対して、一歩も譲りたくないお考えであろう。」
趙王の張耳が、聞いた。
「滎陽の防戦に、見込みはあるのか?」
韓信は、首を横に振った。
「滎陽は、遠からず陥ちるでしょう。」
張耳は、聞いた。
「その滎陽に、兵を送るのであるか?」
韓信は、答えた。
「是非もありません。漢王の、意図です。」
韓信は、漢王があまりにも項王と正面から張り合うことに、こだわり過ぎていると思った。今や漢の本領に加えて、韓信が征服した領土を併せれば、漢は優位に立っている。なのにあまりに滎陽の一城にこだわって攻防を続けたならば、追い詰められて漢王の命すら危なくなるかもしれない。
韓信は、言った。
「だが、趙は漢の同盟国です。漢が戦う以上は、協力するより他はありません。」
韓信は、漢に協力を拒むことなど、できなかった。拒めば、趙と漢とは別の国として道を歩むことになるだろう。それは、せっかく優位に傾き始めていた漢の立場を、掘り崩してしまう。韓信は、天下平定のために、漢に趙を沿わせなければならなかった。
張耳は、不満であった。
趙の諸将もまた、不満であった。
しかし、韓信の意向を拒むことは、誰にもできなかった。
軍議から戻った韓信を、鄧陵子が迎えた。
鄧陵子は、慙愧に耐えぬ面持ちで、韓信に謝した。
「滎陽の崩れは、わが同志の過ちが原因であった模様です、、、何とも、面目無い。」
鄧陵子は、彼の同志から、別れの言葉を受け取っていた。
滎陽に残っていた同志たちは、項王の策に嵌って城を内側から破られてしまった。彼らは責任を感じて、今後は滎陽を最後まで守り抜いて、城賽と共に死ぬ覚悟であった。それが、墨家の責任倫理というものであった。
韓信は嘆息して、鄧陵子に言った。
「どうして、彼らを責めなければならないのか!、、、憎むべきは、項王の非情ではないか。彼は、人間ではない。」
だが鄧陵子は、答えた。
「悲しくも、それが彼らの決意であります― 私には、どうすることもできません。」
そう言って、彼はうなだれた。
韓信は、沈痛であった。
彼と戦った李左車は自ら死を選び、今また鄧陵子の同志たちも滎陽で果てる道を選ぼうとしていた。多くの者が、彼の周囲で次々に命を落としていった。
(天下の平定の、ためとはいえど―)
韓信は、自室に足を運びながら、物思いに耽った。
(戦は、悲しいことが多すぎる。早く、終わらせたい。終わらせて、しまいたい―)
陣営の中は、夕闇が濃く迫っていた。
韓信は、広く間取られた自分のための陣舎を歩き通した。彼は、大将の陣として設営されたその大きさを見て、白けてしまった。彼には、このような豪華さは必要がないと、思った。いつかもっと縮小させようとは思いながら、今日は考えながら歩き続けるために、都合のよい自室までの遠さであった。
彼は、思った。
(和睦しても、よいのではないか―?)
韓信の頭に、そのような考えが浮かんだ。すでに漢は趙を併せて、圧倒的優位にある。優位にある時は、和睦する好機である。項王とて、和睦に応じないとは限らない。今の天下は、とても戦を続けている余裕などない。せめて目の前の悲惨を和らげるために、楚漢が一時的に休戦すべきではないだろうか。
韓信は、足を進めると共に、これまで考えもしなかったことにまで思いを進めてしまった。それほどに、彼が見た戦の惨たらしさは、彼の心を蝕んで止まなかった。
「いいや― 和睦など、夢の話だ、、、」
韓信は、奥の自室に入った。
彼は、びくりとした。
昨日の晩に比べて、中の様子が変わっていることに、気が付いた。
昨晩の彼は、燭台の明りが一つきりであった。彼にとっては、夜などそれで十分であった。
しかし、室の奥には彼が戻ってもいないのに、もう灯された光の輪があった。
一つ、二つ、、、三つ、、、
四周を優しく照らすような結構で、誰かが明りを置いていた。
韓信は、奥を見通すことができなかった。
絹の帳(とばり)が降りて、繭の中のように薄く隠されていた。
「誰だ!」
韓信は、叫んだ。
奥から、女声がしめやかに斉唱した。
「お帰りなさいませ― 左丞相。」
撫で付けるような、柔和で涼やかな声たちであった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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