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十六 この男、宝貝(バオベイ)(2)

(カテゴリ:背水の章

韓信は新たに趙王に昇った張耳を連れ立って、修武に向けて陣を動かした。

兵を進める韓信の陣営に、最近しきりに顔を出すようになった人物がいた。
「― 蒯通です。」
男は、今日も韓信の陣営に入り込んで、名乗った。
名乗りが耳に聞こえて振り向いた頃には、すでに大将のすぐ後ろに身を控えている。それが、彼の不気味な動きであった。
この男が、初めて韓信の陣営に現れたときも、そうであった。蒯通は、彼がほとんど意識にも留めないうちに、もう彼の背後に控えていた。韓信は、当初この男のねっとりと貼り付くような感触に、寒気を覚えた。だが、韓信は怒鳴り付けて人を追い散らすような性ではなかった。それで、何を言うこともなく、そのままにして置いた。
すると蒯通は、おもむろに自らについて語り始めた。
「それがしは、縦横家です。」
韓信は、とりあえずも彼に返した。
「ほう、、、つまり君は、かつての蘇秦や張儀の類なのか。」
蒯通は、言った。
「さよう。そして、それがしは当世最高の、縦横家です。」
ずいぶんな自信に、韓信は苦笑した。
「自分を高く売り付けるのは処世の法であるが、当世最高とはあまりにも自信過剰ではないか?」
蒯通は、笑いもせずに答えた。
「真実を、申したまでです。あなたが当世最高の兵法家であるのと同じ、厳正な事実です。」
韓信は、鼻白んだ。この不気味な男には、冗談はない。
蒯通は、韓信に言った。
「それがしは、もと陳餘に仕えていました。しかし陳餘はそれがしの策を用いることなく、亡びました。もし陳餘がそれがしの策の通りに天下を動かしていたならば、今頃あなたは泜水(ていすい)のほとりで陳餘の代わりに斬首となっていたでしょう。このように縦横家の術は、兵法家の術よりも上なのです。」
彼はぬけぬけと、韓信に挑発の言を投げ掛けた。
さすがに韓信は、むっとした。
彼は蒯通の方を向いて、言った。
「蒯生。あなたは、私に何をしに来たのか!」
韓信は、蒯通の目を正面から見た。
韓信は、ぎょっとした。
これほど焦点の合っていない目付きを、彼は初めて見た。蒯通の目は、確かに韓信を見ているはずなのであるが、まるで何も見えていないかのような虚ろな眸子(ひとみ)であった。いや、彼の目は何かを見ていた。地上の具体的な人間などを越えた、何かもっと大きな流れに焦点を合わせていたかのようであった。
蒯通は、言った。
「あなたは、当世最高の兵法家だ。しかし、あなたには見えていないものが、あります。それがしには、あなたが見えないものが、見えるのです―」
韓信は、蒯通の目つきに、ぶるりと震えた。
それ以降、韓信は蒯通が陣営に出入りしても、追い払わなかった。
実際に話してみると、蒯通は確かに驚くべき才能の持ち主であった。
韓信は、外交という技術が兵法に優るとも劣らず国家に力を与えることを、蒯通の話から知った。
「兵馬を用いる兵法は、集団の力で敵を討ちます。しかし、合従連衡の外交は、君主一人の心を取ることによって、同じ結果を得ることができるのです。兵法では、小国は決して大国に勝つことができません。しかし、外交を用いれば小国でも合従の盟主となって諸国を併せ、大国を抑え込むことができるのです。ゆえにかつての偉大な明主は、兵馬の将と外交の説者を、等しく重用しました。両者があって、初めて国家の戦略は成り立つからです。」
蒯通の言葉に、韓信は素直に感心した。
「まさしくそれは、私の考えの及ばぬところであったよ。私は、これまで兵馬の力ばかりに注目していた。だが、国家の安全のためには、戦わずして成果を収める外交の術にも、目を開かずにはいられないよ。」
韓信は、喜んで蒯通の外交術を理解した。
蒯通は、喜ぶ彼に言った。
「― しかし、あなたでは説者は、決して務まりません。」
韓信は、聞いた。
「そうであろうか?」
蒯通は、言った。
「説者には、君主の心を読み取って動かす、揣摩臆測(しまおくそく)の術が必要なのです。あなたは、性が素直すぎます。」
韓信は、彼にこう言われても、別段に怒らなかった。
「そうか。」
蒯通は、それ以上のことを言わなかった。
彼は、心中で独語しただけであった。
(だから、この私がお前の側に必要なのだ、、、俺とお前は、これから決して離れないぞ。)
こうして、蒯通は韓信の側に、常に控えるようになった。
韓信の軍は、進んで邯鄲に入った。
邯鄲では、漢からの使者が待っていた。
韓信は、漢の使者に会った。
「灌嬰、、、君は、御史大夫に昇ったか。君の功績ならば、当然の職位だ。」
韓信は、拝礼して迎える灌嬰に、声を掛けた。
灌嬰は、一時漢王のところに戻っていたが、今後趙の駐留軍との連絡役として、再び韓信に接触する役目を仰せつかった。彼のこれまでの功績のうち、韓信と共に挙げた数は最も多かった。
灌嬰は、今や高位の職に就いて、挙措までも落ち着いた風であった。
彼は、韓信に謹んで漢王の意向を述べ立てた。
「左丞相のお力を、大王は大いに恃みにしています。大王は、何としてでも項籍に対して踏み止まらんと、不退転の決意です。どうか、趙王と共に、我が漢の勝利に向けて力を併せんことを、、、」
灌嬰に最後まで言わせず、韓信はそうかそうかと、彼の手を握って協力を約束した。
灌嬰は、韓信から労われて、大いに喜んでみせた。彼は今や、この偉大な軍略家の実力をすっかり認める心持に傾いていた。国士無双と共に戦ったことは、武人の彼にとって誇るべき光栄であった。
喜ぶ灌嬰に対して、手振りで密かに合図を送る者があった。
灌嬰は、しばらくしてようやく気が付いた。
(御史大夫。後で、来い、、、)
手招きしていたのは、韓信の後ろに控えていた曹参であった。彼は、漢の派遣将軍として今も趙にいた。
会見の後、灌嬰は趙王に謁見する合間を縫って、曹参のところに赴いた。
灌嬰は、曹参に聞いた。
「、、、いったい、何でしょうか?」
曹参は、灌嬰を手招きして、言った。
「もっと、近くに寄れ。」
顔を近づけた灌嬰に対して、曹参は囁いた。
「よいか。このことを、大王に忠告しておけ。」
灌嬰は、固唾を飲んで、うなずいた。
曹参は、つぶやいた。
「― 韓信、怪し。兵権を持たせ続けるのは、危険。」

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章