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十六 この男、宝貝(バオベイ)(1)

(カテゴリ:背水の章

趙の戦は終わったが、中国の天下全てを見渡せば、その勝敗はいまだに定まることがない。

中原の地では、項王と漢王との一進一退の戦が続いていた。
韓信が河水(黄河)の北を押さえたことによって、土地の広さとしてはこのとき漢軍が大きく優位に立った。楚軍は河水を越えて趙にも別働隊を繰り出す試みをしたが、韓信はそれをことごとく撃退した。
韓信は、漢王に報告すると共に、聴許を仰いだ。
― 燕は、我が方から送った使者に同意して、漢に靡くことを認めました。この上は、趙王として張耳を立てて、趙を漢の同盟国となしたまえ。さすれば、趙国の将と官を用いて、漢に有利な政策を行なうことができるでしょう。
しばらくして漢王より、返答が来た。
― 張耳を趙王として立てることは、認めよう。ただし、いま漢は中原で楚と激戦している。趙王ともどもに南下して陣を敷き、兵を送って漢を助けよ。
返答を受け取った韓信は、張耳を招いて談合した。
張耳は、韓信に言った。
「この要求を、あなたは聴かれるのであるか?」
韓信は、答えた。
「やむをえないでしょう。趙と漢は同盟国である以上、できる限りの協力はしなければなりません。我らの共通の敵は、項王なのですから。」
張耳は、韓信から趙王になってくれと頼まれて、引き受けざるをえなかった。韓信の意向に、彼が逆らうことなどできなかった。
しかし、張耳は内心で舌打ちしていた。
(甘い。この男は、甘すぎる、、、)
張耳としては、趙を取ったからにはこの国を漢王と対等の勢力として、育て上げるつもりであった。何よりこの趙には、いま国士無双の韓信がいる。国士無双の軍事力があれば、趙は漢の指令を唯々諾々と受けるいわれなど、もはやあるはずもない。
韓信は、そのような張耳の深謀遠慮など知ってか知らずか、張耳に言った。
「陣を、南の修武(しゅうぶ)に置くことにしましょう。修武ならば、中原の戦線に近い。」
張耳は、黙って韓信の案を認めるしかなかった。趙の軍権を左右するのは、韓信より他にありえなかったからであった。
張耳は、韓信のもとから退席して、自分の邸宅に戻った。
家中の者たちが、並んで邸外の門で出迎えていた。
その先頭に立って、養女の黒燕が拝礼して老いた義父の帰還を迎えた。
張耳は、黒燕に聞いた。
「敖は、どうしたのか?」
彼は、嫡男が出迎えの顔にいないことを、いぶかった。
黒燕は、頭を下げたままで答えた。
「― 長兄は、宮城に赴いて百官と顔を繋いでおります。やがて王太子となる、身でごさいますので。」
張耳は眉をひそめて、吐き捨てた。
「百官ごときと話すことを、政治とでも思っているのか、、、愚息めが。」
やがて張耳は韓信と共に、出陣しなければならない。
留守を預かる張敖が百官と打ち合わせることは、確かに政治の道として肝要なことであった。
しかし、策士の張耳が望むことは、そのようなところにはなかった。
邸内に入った張耳に、黒燕が話し掛けた。
「― 父上。いや、もう趙王と、お呼びするべきでしょうか?」
黒燕は、意地の悪い笑みを浮かべた。
張耳は、小娘の諧謔を聞いて、笑いもせずにぶるぶると頭を振った。
「この俺が王になって、どうするのか。あの男でなくては、漢王と争えぬ!」
張耳は、奥の間の主人の座に、どかりと座り込んだ。
彼は、言った。
「あの男は、趙の宝貝(バオベイ。宝物)だ。手放しては、ならぬ。隠し持っては、ならぬ。そして安く売っては、断然ならぬ。」
黒燕が、湯を運んで来て、彼に差し出した。
娘は、言った。
「、、、あれを、その気にさせなければなりませんね。」
張耳は、湯をぐいと一呑みして、息を付いた。
彼は、言った。
「そうだ。あれを何としてでも、権力に取り込むのだ。下から担ぎ上げて、もう降りることができないところまで、上せてしまう。あいつだけが、項羽劉邦どもと対等に戦える力を持っているのだ。なのに、あいつは自分の力にまだ気付いていない。目を覚まして、やらなければならん―」
張耳は、彼の前に控える自分の養女を見た。
彼は、言った。
「趙黒燕、、、始皇帝と同じ血が流れる、娘であるよ。」
黒燕は、にこにこと微笑んだ。
かつて、張耳は亡んだ趙国から、一人の幼な子を買い込んだ。趙で産まれ育った始皇帝の一族の血が流れた、幼児であった。
それが、この趙黒燕であった。やがて彼女は成長し、張耳は密かに始皇帝のもとに彼女を送り込んだ― 孤独な皇帝を魅惑して、そして殺すために。彼女は養父のもとに戻って、いますっかり成長した女に育っていた。数奇な運命を走り抜けてきたこの女は、世の常の女たちとは違う、美しくも冷酷な心の持ち主であった。
張耳は、言った。
「― お前が、俺の持つ宝貝だ。」
黒燕は、義父に言った。
「― 私の、出番なのですか。」
張耳は、にやりとした。
「国士無双を、王に仕立ててやれ。奴の心を、奪うのだ。」
黒燕は、莞爾(にこり)としてうなずいた。
彼女は、義父に言った。
「あの男に、この世で力を持つ者の運命を、知らしめてあげましょうぞ、、、」

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章