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十五 夢は儚(はかな)し(2)

(カテゴリ:背水の章

韓信が趙国に入ってから、しばらく経ったある日。
彼は、李左車を伴って趙の領内の視察に出かけた。

韓信は郷里を通るたびに、嘆息するばかりであった。
「何という、疲れ切った郷里ばかりなのか。何という、果てしなく続く破壊なのか―!」
秦末、章邯と項王との戦役は、趙国を戦場として行なわれた。
韓信も、項王の一配下として参加していた。だから、趙の国と民については、彼も見ていたはずであった。
しかし、いま李左車に案内されて郷里を巡ってみると、彼が軍中にいたとき何も見ていなかったことを、思い知らされた。
李左車は、韓信に言った。
「趙は秦末の動乱で麻のように秩序が乱れ、さらに章邯の戦役によっていずこも死の巷となりました。それでも、天下に戦いの種は尽きませんでした。」
長く続いた戦国の世であっても、現在ほどに郷里が傷付いたことはなかった。
それほどに秦末以来の破壊は長く続き、規模は大きかった。戦国時代には、大きな戦があったとしても、戦場で兵が倒れるだけのことであった。しかし、秦末に陳勝と呉広が挙兵してから起った天下の大民変は、郷里のことごとくを巻き込んで、根から枯らしていった。流民は相次いで郷里を襲い、徴発は明日の食まで奪い取った。その結果が、韓信の進む前に果てしなく続く、疲れて暗い顔の人々であった。
李左車は、言った。
「たとえ陳餘が趙を奪わなかったとしても、項王の政治ではいずれ乱が起るのは必至でした。ひとたび乱が起れば、敵から国を守るために兵を起こさずにはいられません。陳餘の趙は、漢と敵対する道を選びました。疲れた郷里から兵を徴発し、戦を起こしました。それがしは陳餘の将として、この郷里の現状に目をつぶって兵を起こすしかありませんでした。乱が続く限り、守らなければ犯されるばかりだからです―」
彼は、韓信から東の諸国を降す道はないかどうかと問われて、こう薦めた。
― できるならば戦を避けて、兵を帰郷させて休め、郷里を鎮撫させたまえ。それから、まず燕に使者を送って、時勢の推移を説くのです。燕は辺境の国で、隣国に従うことを国政の基本としています。趙から使者を送って説けば、きっと燕は戦わずして従うでしょう。こうして燕を従わせれば、斉に圧力をかけることができます。斉は気位の高い大国ですが、周囲から孤立してしまえば、いずれ漢に従うより道はなくなることでしょう。
李左車は、韓信ならば両国を力攻めにしても、必ず勝てるだろうと思った。だが、韓信は戦を厭った。彼の心を知った上で改めて考えたならば、この趙での大勝はすでに隣国を震え上がらせるのに十分な効果があることに、思い至った。ならば、あえて兵を厳寒の燕地に赴かせ、堅い守りを誇る斉の国境を越えさせることも、ないであろう。
李左車は、韓信にそのことを進言した上で、今は彼が平定した国の実情を知るべきことを、薦めたのであった。
韓信は、言った。
「これ以上、この郷里から何を徴発できるというのか、、、この国はもう、死にかけている。」
李左車は、言った。
「それがしは、趙を受け継ぐ漢の方々に、この郷里の事実を伝えたかったのです。それがしがあなたの求めに応じたのは、あなたに知ってもらいたかったからでした― これからの趙を支配する人間として、この国の民のことを。」
韓信は、李左車の言葉を聞いて、彼の方を向いた。
李左車にもまた、見えていた。
韓信がたとえ否定しようとも、趙の政治は韓信の下に集まっていくであろう。
(どのように感じ、どのように動かれるのか。全ては、あなた次第なのです―)
無言の李左車の目は、そのことを韓信に語っていた。
韓信は、身震いした。
それは、冬の季節だからでは、なかった。
彼は、うつむいて足元を見た。
いま漢王は、趙から兵を出して、さらに征服を進めろと催促していた。
漢王が韓信に望むものは、戦による勝利であった。それ以外には、何もない。
天下から戦いを終わらせるのは、彼の大目的であった。この趙だけを安全に置くわけには、いかない。
彼は、うつむきながら言った。
「、、、なるたけ無駄な戦をしないように、戦況を持っていかなければならないだろう。秦末以来の戦は、あまりにも長すぎた。もう郷里が戦う余力は、尽きかけている。」
李左車は、そのような彼に、答えることがなかった。
韓信は、顔を上げた。
「広武君―!あなたの言葉は、私の心に響いた。この趙であなたに会えたことは、私の喜びであったよ。」
彼は、にこやかに笑った。
李左車は、わずかに微笑んだ。
韓信は、彼に言った。
「だがどうしても、あなたは去るというのか。私のもとに、留まって欲しいのに、、、」
李左車は、改めて趙の官職に就けようという、韓信の招きを断っていた。彼はこの視察を終えたならば、趙の朝廷から去ることを韓信に告げていた。
彼は、韓信に言った。
「それがしは、陳餘の臣です。幼少の頃から陳餘に仕え、彼の夢のために一命を捧げて来ました。いま、主君はすでに斃れ、それがしは別の君に奔るのを恥とします。どうか、お許しください。」
彼は、韓信に深く頭を下げた。
それは、別れに向けてこの将にせめてもの敬意を示す、彼の心尽くしであった。李左車は、韓信のことを主君の仇と思い、憎むことがどうしてもできなかった。それは、世間の倫理によれば、不義であった。不義であることは、彼にとって世で栄達を求めるには重すぎた。
韓信もまた、李左車に深く頭を下げた。
彼の心は、淋しさで一杯であった。

二人が別れてから、またしばらくの後。
韓信のもとに、一通の書簡が届けられた。
韓信は、書簡を読むや否や、滂沱(ぼうだ)して声を漏らした。
「ああ、、、彼は、生きなかったのか!」
書簡は、李左車からの、韓信への遺言であった。
それには、こう書かれてあった。

― 我は、恥を知る。主君が斬られた今、このまま生き続けるわけには参らぬ。韓子よ。国士無双の兵法家よ。貴殿の将才は、古今に比類がない。だが己の天命をわきまえて進み、決して非分の道を望んではならない。貴殿の戦場での強さが咎となって、後世に嗤(わら)われる進退とならぬことを、貴殿に敗れ去ったこの兵法家は、切に願う。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章