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十五 夢は儚(はかな)し(1)

(カテゴリ:背水の章

もと趙の広武君、李左車が韓信のもとに連れられて来た。


李左車が通されると、韓信は端座して待っていた。
「どうぞ、座られよ!」
韓信は、客を促した。
招かれた李左車は、驚いた。
韓信は、応接する室内の左の奥の席に、座っていた。
李左車の席は、相対する右の奥に用意されてあった。室の入口は南に向けて開いているので、つまり韓信は西の席に座って李左車を東の席に誘おうと用意していた。
それは、主客が対等であるということを、席によって言おうとしているのであった。もし主人が目上として降将に相対しようと望むならば、自らは北の上座に席を占めて、相手を南の席に着けるであろう。
李左車は、言った。
「左丞相、、、!そこは、敗残のそれがしなどが、座るべき席ではございません。それがしは、戦に敗れた虜囚の身です。」
しかし韓信は、彼に言った。
「― そんなことは、どうでもよいではありませんか?」
彼はそう言って、李左車に向けて莞爾(にこり)と笑った。
何とも邪気のない、まるで少年のような笑顔であった。
李左車は、いま初めて国士無双の男を目の当たりにした。
猛将でもなければ、貴顕の君子でもない。
実にどこにでもいそうな、一青年の姿であった。
(ああ、、、やはり、このような男であったか。)
李左車が、何となく予感していた通りの印象であった。
一つの道に通暁する人間というものは、得てしてその道以外の人となりは、意外なほどに凡庸なものであった。英雄は、違う。英雄は、人物そのものが異常な生命である。ゆえに他人を巻き込み、支配し、驚くべき成功を収めて、呆然とさせるような被害を撒き散らす。かつての始皇帝、そして当世では項王と漢王。それが、英雄であった。
しかし、李左車の前にいる韓信は、まさしく一介の兵法家であった。
韓信は、李左車と相対して、彼に話し掛けた。
「天運あって、私は勝ってしまいました。勝ち過ぎて、自分でも戸惑っているぐらいです。あなたのことは、戦う前から敬愛しておりました。一度でよいから、共に語り合いたいと思っていたのです。どうか、勝者敗者の区別を抜きにして、私と一時を過ごしていただけないでしょうか、、、?」
李左車は、しばし無言であった。
座りながら、目を伏せて考え込んでいた。
彼はそれから目を上げて、改めて韓信を見た。
韓信の表情は、わずかに曇っていた。できれば兵法家を殺したくないという、心持ちであった。
李左車は、この稀代の名将の純情を、見て取った。
彼は、軽く溜息を漏らした。
それから、口を開いた。
「― 敗軍の将は、勇を語るべからず。亡国の大夫は、存を図るべからず。もはや、それがしには何もできません。ですが、ただあなたが望まれるならば、一時を過ごすだけのことは、あなたのために許されることでしょう。」
韓信は、李左車の言葉を、大いに喜んだ。
その日の午後は、多くのことを語り合った。
韓信は、言った。
「あなたにだけは、言いたい。私は、戦の間に何度も敗れるだろうと、思いました。戦を始めるまでの数日間は、私にとってまるで十年も経ったようでした。もうこのような苦しみは、二度とごめんです。」
李左車は、返した。
「これほどの大きな企画を打ち出したからには、将として労苦するのは当然のことです。労苦に耐えられず、仕掛けに慢心して、敵の意を読む努力を投げ出したとき、敗北はもう目の前に近づいて来るのです。しかしあなたは克服して、見事に勝利することができた。それが、余人の及ばないところです。」
李左車は、陳餘のことを思った。
陳餘は、大兵に慢心して敵を侮り、亡び去った。
李左車は、主君の軌道を修正することができなかった。もし李左車が三万の兵を率いて漢軍を奇襲していたならば、漢の勝利はなかったであろう。韓信と李左車のどちらが虜になっていたかの分かれ目は、じつにわずかの差でしかなかった。あらかじめ勝敗が決まっていたなどという批評は、後世の歴史家が机の上で語ることであった。それは、実際に馬上で刀剣を握り旗幟を立てて戦う彼らに言わせれば、戦場の事実を知らぬ妄言にすぎない。
韓信は、言った。
「ひとつ、あなたの忌憚なき意見を、聞かせてください。」
李左車は、答えた。
「なんでしょう?」
韓信は、言った。
「戦わなければ、燕と斉は降らないのでしょうか?― 私は、さらに東の諸国を漢に併せなければならないのです。」
李左車は、韓信の問いを不思議に思った。
彼は、答えた。
「あなたの将才は、もはや明らかな強みではありませんか。あなたにとって、兵を率いて取ることが、最も楽な道でしょう?」
しかし、韓信は言った。
「戦うだけで、よいのでしょうか。戦とは、結局人を殺す政治です。私は、これまで戦ばかりやって来ました。それが自分に見合った職業であるのをよいことに、調子に乗って戦を続けて来たのです。ですが、、、戦は、結局人殺しです。私は、もっと大事なものを置いて残しているような気がして、なりません。できれば私は、しばらく戦をしたくない。真にそう、思っているのです―」
李左車は、真剣に語る韓信の表情を、見た。
彼は、思った。
(恐れて、いるのか、、、)
韓信の名声は、高まるばかりであった。彼の周囲には、彼を担ぎ上げようとする動きが見え隠れし始めた。韓信は、このまま戦の天才として勝利を重ねれば、かえって自分の望んでもいない地点に世の人が自分を追い込んで行くような気がした。李左車に向けた彼の言葉は、兵法家として勝利した後に来る恐ろしさを、肌で感じた韓信の寒さの表現のように思われた。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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