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十四 戦いの後に(2)

(カテゴリ:背水の章

韓信は、漢軍を率いて趙平定の仕上げに取り掛かった。

陳餘を斬ってから程もなく、趙王歇(あつ)は襄國で虜にされた。韓信は曹参に命じて、趙の残将をことごとく掃討させた。
趙の降将・百官が、襄國で韓信を迎えた。
居並んで跪拝する亡国の臣たちの中に、蒯通がいた。
蒯通は、入城する漢軍の中で諸将に供奉されて進む、韓信の姿を見た。
「韓信、、、国士無双の、兵法家か。」
蒯通は、声を出すこともなく、独りつぶやいた。
彼は馬上の男を見て、ずいぶん若いな、と思った。
「それに、何とも気概のない顔付きである。一国の君主はおろか、一県の県令に足る威厳すら見えない。」
蒯通は、頭脳の中で項王と漢王の表情を、思い浮かべた。
両者とも、一見してただものではない人物であることを、他人に合点させる風貌を備えていた。
その二人に比べれば、韓信の表情は市井の一青年と何ら変わることなく、いかにも平凡そのものであった。いやむしろこの戦国の世で名の聞こえた名士連中の平均を取って見れば、彼の風貌は平凡以下と言わざるをえない。背丈が人並み以上であることだけが、わずかに市井に置けば目立つ程度の特徴と見て取れた。
蒯通は、小首をわずかに傾げた。
しばし、思案したのであろうか。
それから首を戻し、また独りでつぶやいた。
「、、、それも、面白いかもしれんな。」
彼の頭脳は、新たなる絵を天下に描くために、再び動き出そうとしていた。
漢軍は、趙の宮城に入り、これを接収することとなった。
韓信は兵馬を引き連れて、壮麗な宮城の門に至った。
宮門に入った韓信の前に、進み出る者があった。
趙でもと卿の位にあった、高官であった。
彼は、韓信に深く拝礼して言った。
「将軍。お待ちしておりました。」
王は消え去ったが、百官はそのまま残っていた。この広大な趙国を現実に動かしているのは、彼ら官吏の群れであった。たとえ王朝は亡んだとしても、国家の政治は終わることなく続いて行くことができる。その秘密が、彼ら官吏の存在にあった。
高官は、にこやかな表情で、韓信に言った。
「― 王座は、空けておくことができませぬ。将軍。どうぞ、お進みくださいませ。」
彼は、恭しく宮門の奥を、指し示した。
指す手の向こうに、九重の楼殿が一直線に並んで、くぐり抜ける宮闕(きゅうけつ)はことごとく開け放たれていた。
その見晴るかす深奥に、百官が座るために開かれた広大な朝廷の広間があった。
その最も奥に控える場所は、孤(ひと)りして南面する座席。
趙王の、玉座があった。
卿は、恭順して笑みを湛え、韓信に道を示した。
(― いざ、進みたまえ。)
それは、仕えようと望む者からの、誘いであった。
韓信は、ぎょっとして周囲を見回した。
このとき、他の趙の遺臣たちが、みな彼に跪拝していることに気が付いた。
韓信は、飛び上がるように驚いて言った。
「私は、漢の将軍だ!、、、王では、ないんだ。やめてくれ!」
彼は、両手を振って後じさった。
韓信は、後ろを振り向いた。
彼の後ろには、張耳が控えていた。
張耳は、韓信にそっと耳打ちした。
「大国は、要の君主が南面して座ることによって、初めて治まる道理となっております。趙国は、漢の官吏が治めること能わず。王が立たなければ、この百官たちをどうして用いることが、できましょうや?」
統治の、原理。
張耳が囁いたことは、統治の原理であった。趙は、伝統ある大国である。なんで、遠き漢より官吏を派遣されて、余所者に要職を奪われなければならないのか。郡県制では、趙の政治は動かない。
張耳は、莞爾(にこり)としながら、韓信にうなずいた。
このまま前に進めば、彼らは自分を王座に上せて、万歳を叫ぶかもしれなかった。
張耳は、もう一言を韓信の耳に、つぶやいた。
「― 一介の農民であった陳勝ですら、王になれる時代なのです。」
何で、国士無双のあなたが、王になれる資格がないと言えましょうや?
張耳の囁きは、まるで催眠術のように甘かった。
兵法では韓信の足元にも及ばないが、生の人間を知る知識と経験については、張耳はたかが一青年などと比較にならぬ老練さがあった。
韓信は、震えて恐れた。
彼は、このとき人間の群れから拝まれ跪かれる感覚を、初めて知った。
(王とは、これに酔うのであるか、、、!)
彼は、もう少しで足を前に進めてしまいそうな危険に、襲われた。
しかし韓信は、このとき恐れる心が勝った。
彼は己を取り戻して、言った。
「私には、できない、、、できないのだ!」
彼は、慌てて回りを見ることもなく、回りの者たちに向けて言った。
「今は、待ってくれ。このまま進むことだけは、待ってくれ!、、、」
彼はそう言って、張耳に後の始末を任せ、その場から立ち去ってしまった。
残された張耳は、無言で顔をしかめた。
蒯通は、ひざまずく百官の中に紛れて、始終を見ていた。
(心弱いな― 陥とすのは、難しくない。)
彼は、韓信の心を踏んで、そう思った。
宿舎の自室に逃げ込んだ韓信に、軍吏から報告があった。
「今日兵卒から、報告がありました。趙将李左車が、我が軍に投降したということです。」
韓信は、全軍に李左車の身柄を千金で買い取るべきことを、下達していた。
彼は、軍吏の報告を聞いて、喜んだ。
「そうか!、、、くれぐれも彼を、丁重に扱え。」

          

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第十章 垓下の章



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