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十四 戦いの後に(1)

(カテゴリ:背水の章

韓信は、彼の配下からしきりに問われた。

「どうやって、思い付かれたのですか?あなたの智謀は、どこから編み出されたのですか?不才な我らに、どうかお教えください!」
韓信は、何度聞かれても、彼らに一言答えるばかりであった。
「― 兵法に、書いてある通りさ。」
孫子の兵法書は、彼らも読んでいるはずであった。流行に乗じ、読まなければ武人の恥辱だという世間の相場に心釣られて、孫子十三篇は今どき下士官でも手に取ってみる書物であった。
しかし、孫子の兵法を読む者は多けれど、それを知る者はいない。
書中に、こうある。

― 之を亡地に投じて然る後に存し、之を死地に陥(おとしいれ)て然る後に生く(九地篇) ―
韓信が背水の陣を用いたのは、この箇所を応用したまでであった。兵をあえて死地に追い込めば、必死になって勇戦する。どこにも、逃げ場がないからである。窮鼠が猫を噛み、狗(いぬ)が追い込まれれば虎の足に噛み付くのと同じ、動物的な原理であった。ゆえに、孫子は死地の兵に生かしようがあることを、教える。
だが、兵法はじつに正反対のこともまた、教えている。戦の前に陳餘がひねり出した理屈もまた、孫子兵法から取ったものであった。兵法は大兵が寡兵に勝つべき順当な理由があることを力説し、いたずらに兵の勇気に頼って己よりも大きな敵に立ち向かってはならないことを、述べているのである。
韓信は、孫子の原理を取って、しかも自らの創造を加えた。そこに、彼の境地があった。
彼だけが、世の人とは異なって、孫子のこの言を用いることができた。
― 兵とは、詭道なり(始計篇) ―

詭道を用い、虚実の合間を走り抜ける術は、人に伝えることはできない。自分で、見つけなければならないのである。だから韓信は、聞かれても勝利の法を答えなかった。答えることなど、できなかったのであった。
戦が終わった、翌朝。
韓信は、命令した。
「― 大将だけは、殺さなければならない。勝敗の、けじめである。」
韓信は、陳餘を衆目の前で斬ることを命じた。彼を斬ることによって、趙という政体は消滅する。趙の国土と民と兵は、漢に帰することとなるだろう。
陳餘は、泜水(ていすい)のほとりに設けられた刑場に、引き出された。
漢の諸将が、立ち会った。
張耳もまた、そこにいた。彼は、刑吏に取り巻かれて連れ出された義弟を見据えた。
陳餘は、かつての義兄を、ちらりと一瞥した。
(、、、どうして、俺を助命しない。)
彼の怒りに燃えた目は、義兄にその言葉を投げ掛けていた。
張耳は、無言のままであった。
漢の諸将にとって、韓信の命はもはや絶対であった。
韓信は、趙の降兵を殺さずしかも叛かせないために、時を措かず彼らの主君である陳餘一人の首を斬らなければならないことを、決断していた。張耳がたとえ陳餘の助命を嘆願したとしても、韓信は聞くことなどできなかった。
(我らよりも大きな存在が、現れたのだ。諦めよ。)
張耳は、心で義弟に話し掛けた。
陳餘は、舌打ちした。
そしてもう二度と、張耳の方を向かなかった。
刑場に、陳餘は座らされた。
韓信が現れて、彼の目の前に歩を進めた。
陳餘は、韓信の姿を見て、笑顔で呼び掛けた。
「将軍!、、、さすがだ。貴殿は、さすがの国士無双だ。いやはや、感服しましたぞ。」
韓信は、答えなかった。
陳餘は、相手のことなど構わず、いともにこやかに弁じ立てた。
「国士無双の、韓信よ、、、!貴殿は、どうして天下を狙わないのか?貴殿の才は、もはや天下に隠れることがない。どうか進んで、天下を目指すがよい。そのためには、人を殺してはならない、、、貴殿を慕う人材が、ここにいるのですぞ。」
韓信は、陳餘を見下ろした。
彼は動きもせず、言葉も出さなかった。
陳餘は、一人で話し続けた。
「この余を、使うがよい。この余が共にいれば、貴殿は天下を取れるぞ。貴殿は、漢王の下風になど立つ器ではない。目覚めよ。目覚めるのだ、国士無双よ。貴殿は帝位に昇り、この余は帝師として天下に君臨するのだ。夢を持つのです。この臣と共に、夢を追いかけましょうよ。この臣がいれば、あなたは項王、漢王ごときを蹴散らして、必ず―」
だが韓信は、それ以上聞こうとしなかった。
彼は、後ろで刀を持つ刑吏に、言った。
「刑吏よ。一撃で、楽にしてやれ。外すなよ。」
彼の言葉は、それだけであった。
韓信は、処刑の瞬間を見ることもなく、くるりと向きを変えて刑場から歩き去った。
歩き去る彼の背後から、声がしたような気がした。
「― いい気に、なるな!」

後世に「背水の陣」という格言を残した井陘口の戦役は、こうして終わった。
この一戦で、韓信の名声は決定的なものとなった。もはや、彼の用兵を疑う者は、軍中にいなくなった。将軍として、韓信はこの上もない成功を収めた。
だが、韓信が予測できなかったことが、一つだけあった。
この戦の結果があまりにも鮮やかに過ぎて、それは彼の周囲に伝説を作り上げることとなった。その伝説は、彼の像をかつてないほどに天下に大きく映し出すこととなった。一人の兵法家として仕事をしたまでの韓信は、しかしその成功によって、兵法家としての自己像を越えようとしていた。それは、韓信の思いもしなかったところで、進んでいった。

          

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