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十三 兵法の真髄(4)

(カテゴリ:背水の章

背水の陣を敷く漢軍は、あと一刻を持ち応えることが、果たして出来たかどうか。

曹参も、張耳も、誰一人として戦況に楽観などしていなかった。
川を背にして三方を敵軍に囲まれた状況では、一瞬間気を抜けば、確実に死ぬ。
諸将も、兵卒たちも、韓信の仕掛けた罠に落ち込んで勇戦した。この大将を信じるか信じないかなど、死地に追い込まれてしまえば、もはや問題の外であった。
人間を感情のある機械と見倣して、外部の状況を操作することによって人間の集団力を最大限に引き出す科学が、兵法であった。非情に徹し、科学の目で戦場を見詰めたとき、勝利の確率は高まる。その上に、生存の確率すらかえって大きくなるのが、兵法の道理であった。この戦で、韓信は兵法の非情の法則に徹して、人を動かすことができた。共に戦った曹参や張耳に比べて将としての外見は実に頼りなさげな優男であったが、韓信には彼らには扱えないもっと大きな力を動かす、もっと大きな才能があった。
戦場の流れは、急転換した。
漢軍が一挙の攻勢に転じたとき、趙軍は崩れるように浮き足立った。
全体がどう推移しているのか掴むことができない現場の将兵たちは、敵将韓信の罠に嵌ったと、合点した。
国士無双の、罠!
漢将韓信の、謎!
趙の将兵の意識上に、とうとう彼の勇名が浮かび上がった。韓信の像は彼らの脳裏で勝手に増殖して、一度恐怖に駆られたならばもはや拭うことができなかった。彼らはにわかに背後を埋め尽くした赤旗と、前から迫る赤旗に挟み撃ちにされる錯覚を感じた。韓信は、まるで百万の兵を魔術のように沸きあがらせたかのように、感じられてしまった。
曹参は、自ら騎卒を率いて敵中に斬り込んだ。
各方面で、漢軍が趙軍を切り崩した。
趙兵は防ぐことも知らず、兵は白布がほつれるように割けていった。
「退却!、、、退却!」
趙軍の中から、絶叫が起った。
うろたえた趙将の、指示であったか。
それとも韓信じたいが、間諜を放って趙軍の只中で叫ばせたか。
「― 退却!」
その声に応じて、万余の趙兵が我先に逃げ出していった。
「退くな!、、、退いたら、敵の思う壺だ!」
李左車が、崩れていく自軍を押し止めようと、必死に叫んだ。
だが、言葉ではもう止まらなかった。
彼は剣を抜いて、臆して逃げようとする兵卒を、片っ端から撫で斬って行った。
「退くな、、、」
彼は、剣を血まみれにしながら、それでも後から後から逃げ出していく自軍の数多さを、呪った。
攻める漢軍に、崩れる趙軍。
これほどの変化を、今日の朝に誰が予想できたであろうか。
戦場を見下ろす塁の上に、張敖がいた。
彼は、騎卒を率いて敵塁に侵入し、赤旗を立てる仕事を終えたばかりであった。
張敖は、いま韓信の不思議を見ていた。
今日の朝まで、彼はいまだに韓信の勝利を信じることができなかった。
いま、眼下で二十万の趙兵が、わずかな自軍のために混乱の極みに陥ちていた。
人間をこれほどまでに操作できる韓信とは、一体何者であろうか。
彼は、呆然として見下ろしていた。
鄧陵子が、張敖の後ろに立って、彼を叱った。
「何をしておられる。駆け降りるのです。ほら、あそこに陳餘がいる!」
鄧陵子は、眼下の一点を指差した。
趙兵は、今や四方八方に逃げ出し始め、ぐるぐると人の流れが渦巻いて衝突し合っていた。
その中心で、味方の渦の中心にあって身動き取れないでいるところが、陳餘の居場所であった。
鄧陵子は、言った。
「あれぞ、まさしく陳餘の陣!、、、兵馬を率いて、一挙に進みたまえ。それが、あなたの役目です。」

井陘口の戦は、一日で勝負がついた。
結果、漢軍は古今の史上にない大勝を収めた。
捕虜となった将兵の数は、数えてみれば漢軍の兵数の数倍に膨れ上がっていた。
兵法を逆手に取り、敵の心理を読み尽くし、戦場の流れを制した韓信の、芸術的勝利であった。
大将の陳餘は、乱軍の中で捕らえられた。
趙王歇(あつ)は襄國に向けて逃亡したが、陳餘を捕らえた今は彼の存在など無に等しかった。遠からず、漢の虜となるであろう。
広武君李左車は、どこに行ったか分からなかった。彼は、陳餘の臣であった。主君が捕われた以上、彼の行く場所など、残されているはずもなかった。
全てが終わった戦場に、勝者の陣営が置かれた。
将軍と軍吏たちが集まったところに、大将の韓信が現れた。
総員が、風になびいたようにひれ伏した。
彼らは、国士無双の実力を、今日の戦でまざまざと見せ付けられた。
韓信は、配下たちの様子を見て、しごく軽い調子で言った。
「― 諸君。約束したことを違えてすまんが、今夜の宴会は後日に回すことにしたい。あまりに、捕虜の数が多すぎた。先にやるべき、ことがある。」
張耳が、不審に思って聞いた。
「何を、お考えで―?」
韓信は、軍吏に命じた。
「捕虜の兵卒に、食を割り与えよ。食がなければ、彼らは自暴自棄となる、、、まさか彼らが餓えている目の前で、勝者が宴会をするわけにはいかないよ。」
彼は、捕らえた趙兵をそっくりそのまま、漢兵として編入するつもりであった。
韓信は、言った。
「兵を殺す必要など、なし。我らは項王とは、違うのだ。」
彼は、早くも今日の戦闘から心を離して、漢王から委託された作戦の基本方針に、考えを戻していた。趙は、平定しなければならない。勝ちに奢って恨みを買っては、今後に統治することができない。
張耳も、同じく今日勇戦した曹参も張敖も、改めて韓信という将を畏れた。

          

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