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十三 兵法の真髄(3)

(カテゴリ:背水の章

一揉みに潰さんと気構えた趙軍であったが、戦況は陳餘の甘い予想通りにはいかなかった。

大兵で寡兵を囲む用兵は、確かに孫子兵法が書き記すところである。
だが、陳餘は文章の行間にある、法則を読むところがない。
兵とは、彼我の心理戦である。
敵の鋭気を挫き、敵に戦っても勝てないと臆病にさせたならば、我が勝利は片手で掬い取るがごとくに自在に得られるであろう。
大兵を用いる利点は、実にそこに存在する。兵とは、腕が断たれ腹が引き裂かれて力尽きるのではない。兵は人間という生物であって、真っ先に挫けて力尽きる箇所とは、心なのである。ゆえに、名将は敵の心を撃ち、味方の心を操る。敵を不安のどん底に落とすまでに揺さぶり続けて、こちらは大兵で包囲して絶対的な勢いを見せ付ける。さすればやがて下卒には脱走が相次ぎ、将は判断の適確さを失い、こちらが仕掛けた調略に易々と踊らされる結果となるであろう。わが豊臣秀吉の攻城戦や、現代の米国が秩序に外れた「ならず者国家」に仕掛ける戦略に、その好例を見ることができる。
だが、このとき漢軍は背水の陣を敷き、自軍をあえて死地の死地に追い込んだ。そこに趙軍が力攻めで討ち入ったとき、漢軍の心はかえって固まり、破れることを拒んだ。一刻が過ぎ、次の一刻が経とうとしても、漢軍はいまだに持ち応えていた。
趙軍は、戦闘開始時の勢いがようやく弱まり、戦果の出ない状況に倦み始めた。
李左車は、言った。
「まだ、戦は始まったばかりです。今日はしばし、兵を返されよ。我が軍は密集し過ぎて、兵を動かすことすらできなくなっています。乱れた軍では、決して勝てません― 自重なされよ。」
陳餘は、怒りの時期を過ぎて、今度は弱気の気配に支配され始めていた。
「今日敵を倒さなければ、明日には、、、明日にはもっと、悪くなるかもしれぬ。天は、我を勝たせようとしているはずなのだ。まだだ。まだ、戦い続ける。」
李左車は、怒気を含めた声で、主君を諌めた。
「居続ければ、我が軍の士気は落ちるばかりです。あなたは大兵を持ちながら、いっこうに使う術を知られない!」
配下に批判されたとき、陳餘は勘気を戻した。
「貴様、それが主君に対する言葉かっ、、、黙れっ!余は、退却はせぬぞ。広武君、お主は、前線に行って督戦して来い!韓信と張耳の首を、さっさと余の前に持って来るのだ!」
陳餘は、李左車を追い払ってしまった。
彼は、戦の行く手に何となく不安を覚え始めていた。
だが戦況は、このときすでに彼の不安を先走ろうとしていた。
背後にある、趙軍が陣取っていた塁。
すでに陳餘は全軍を野に繰り出して、塁は兵馬の声もなく静かであった。
しかしその最高所、すなわち朝方まで陳餘が陣取っていた地点に、動く人影があった。
人影は、小さく巻いてあった旗竿を、振り解いた。
風に煽られて、大きな赤旗が拡がった。
赤旗の中心には、「漢」の一字が大書されてあった。
その大旗を合図として、塁の各所において次々に旗を巻く紐帯が解き放たれた。
たちまちに、塁の上には二千旒(りゅう)の赤旗が翻った。
漢旗を真っ先に開いた人影の正体は、鄧陵子であった。
彼は、眼下を眺めて言った。
「陳餘、漢軍の寡兵を見て奢り、策なき力攻めに走る。韓信、背水の陣を敷き自軍を死地に追い込んで、勇戦させる。ここまでならば、戦史にもしばしば見られる戦である。しかし、その後に韓信の無双の技がある―」
昨日の夜半、密かに行動した二千の歩騎は、身を潜めて戦機が熟するのを待っていた。
趙軍が韓信と張耳の挑発に乗せられて攻勢に出た後も、いまだしばし自重した。
やがて、背水の陣の漢軍と包囲する趙軍との戦いとなった。戦場が完全に野戦に移行したときに、ついに二千の部隊は動いて塁を襲った。塁は、簡単に取ることができた。だが敵の塁を取ることだけが、目的ではなかった。究極の目的とは、敵の不意を付いて一挙に敵の心を挫いてしまうことであった―
鄧陵子は、叫んだ。
「よし、軍鼓を鳴らすぞ、、、趙軍に、聞かせてやれい!」
彼は、自ら軍鼓の前に立って、一振りを叩いた。
それに呼応して、各所から軍鼓の音が一斉に鳴った。
鄧陵子は、もう一打ちした。
続けて、各所の軍鼓が、呼応した。
鄧陵子の音は、全体を領導する律動であった。
鄧陵子が打てば、各人が追って打ち叩いた。
軍鼓の音は山中に共鳴して、何十倍もの轟音となって下の戦場に鳴り響いていった。
趙軍の将兵は、背後から異様な物音が聞こえてきたことに気付いた。
振り向く頭の数は、十、百、さらに千と、増えていった。
「あ―――っ!」
やがて趙軍の全体から、大きな悲鳴が上がった。
塁の全てに、赤、赤、赤の旗。
「漢」の字が赤地の上に、鮮明に染め抜かれていた。
塁上から、続けて軍鼓が鳴り響き、趙兵たちに向けて浴びせ掛けられた。
鄧陵子は、敵の不安を煽るための律動の効果を、知り尽くしていた。
軍鼓の打つ音は、心臓の高鳴りと同じ速さであった。それは、少しずつ速度を上げていった。戦場に取り残された趙兵たちは、せり上がるような不安に急速に襲われていった。
李左車は、両の拳を握り締めて、思わず天に突き出した。
「― やられた!これが、韓信の狙い!」
彼は、天を仰いで嘆息した。
だが、嘆息している暇があるはずもなかった。彼は、周囲を叱咤した。
「うろたえるな!あれは、旗だけだ!敵軍の数は、わずか、、、!」
しかし、彼の言葉は全軍に響かなかった。
集中しすぎて、勝ちに焦りすぎた趙軍は、一転して収拾が付かない混乱に陥っていった。全ては、韓信の作戦のうちであった。
戦場は、朝の市場のように右往左往する人間の集団と化した。
塁を奪われた趙兵に、恐怖の波が急速に押し寄せていった。それはいわば市場を取り締まる監督の官吏が逮捕のために到来したかのような、焦る衆人の心理となった。
鄧陵子が、一本の笛を出した。
猟師が鳥を追うための、呼び笛であった。
彼は、大きく息を吸って、呼気の勢いの続く限りに吹き鳴らした。
甲高い音が炸裂して、数里の先にまで響き渡った。
まるで、鳳鳥が怒りて戦場に舞い降りたかのような、猛き響きであった。
それが、漢軍の反転攻勢のための、合図であった。
「今ぞ― 者ども、叩け!」
韓信、曹参、張耳が、怒号した。
将の号令に、ついに漢軍が守りをかなぐり捨てて、攻め立てた。
このとき斬り込まれた趙軍は、まるで竹を割くようにどうと崩れた。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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