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十三 兵法の真髄(2)

(カテゴリ:背水の章

怒涛のように押し寄せる趙軍の軍靴の下に、韓信の軍はひとたまりもなく踏みしだかれた。

攻める趙軍の中から、誰かが叫んだ。
「― 得到了(取った)!」
巨軍の大騒ぎの中で、その声はよく響かなかった。
だが、叫んだ主は、自分の功績を宣伝するために、繰り返し繰り返し声の限りに主張した。
「得到了!得到了!、、、大将旗は、俺のものだ!」
男は、勇躍して赤い漢将旗を振り回した。
「あ!」
「やられたっ!」
振り向いた周囲の将兵は、口々に叫んだ。
「可悪(おのれっ)!、、、お前なんかに、渡してたまるか!」
漢将旗の周囲で、たちまちに醜い大乱闘が始まった。
向こうの方面では、別の声が揚がった。
「常山王旗は、この俺がもらったぞぉ!」
盛り上がるような兵馬の群れを縫って、今度は常山王の旗が振り回された。
乱闘は、常山王の旗の地点にも、飛び火した。
この戦を起こす前、大将の陳餘は全軍に楽勝であると吹聴していた。圧倒的な自軍の数に対して、敵軍は取る首の数もそんなに多くないだろう。それは、恩賞の配分が少ないであろうことを、将兵たちに予測させた。
その上、陳王は配下の者に対して与える恩賞が少ない上に、規準があいまいであった。君子たるもの、金銭の事情などに細かくこだわることを恥とする信念が、陳王にはあった。大事なのは仁義の理念であって、君臣の礼儀である。彼は宮中の礼儀について箸の上げ下げの間違いについてすら、配下に細かく指導した。だが戦の賞罰については、極力にゆるやかであった。陳王個人の信念としてはそれでよかったかもしれないが、配下は目に見えないところで混乱していた。戦場でどうやって報われればよいのか、何をすれば罰せられるのかが明らかでなく、その結果がいま敵の将旗を取ったりした際の、大混乱であった。めいめいが過分の功績を挙げようとして焦り、そして功績を横取りするために同士討ちすら起こすのであった。
当の陳餘は、にこやかな顔付きで、眼下の醜態を観察していた。
「まこと、下賎の者どもは度し難く愚かであるよ、、、」
彼はすでに今日の勝利は、早くも決まったと思い込んだ。
李左車が、顔をしかめて言った。
「陳王!笑っている場合では、ありませんぞ。」
陳餘は、余裕の表情を李左車に見せた。
「もはや、韓信も張耳も敗れ去った。あっけない、勝利であったよ。この上は、余は何を望もうか。仁義に優れ、礼儀を知り、兵法に卓越する。許せ、広武君。今日の余は、ついつい己の進んで来た道の正しさに思いを馳せて、心中に無量の感慨なのだ、、、」
このまま行けば、彼は得意の詩経でも、一曲吟じ出しそうであった。
李左車は、大真面目に諌めた。
「どこに、勝利があるのですか。韓信も張耳も、軍旗を捨ててさっさと退却したのです。これは、予定の行動です。直ちに、追撃を命じられよ!」
李左車は、主君の返事をもはや待たなかった。
彼は、軍吏に命じた。
「― 取った軍旗などは、破り捨ててしまえ!」
陳餘の得心とは違って、戦いはまだ何も始まっていなかった。韓信たちは、旗も軍鼓も擲(なげう)って、後背に構える本軍向けて逃げ去って行った。
韓信が、馬を奔らせて飛び込んで来た。
彼は、叫んだ。
「― 総軍、旗を立てろ!」
川を背にして構える一万の本軍を指揮していたのは、仮左丞相の曹参であった。
曹参は、韓信の帰還を見て、命じた。
「旗!」
命が行き渡り、直ちに赤旗が林のように立ち上がった。
韓信を先頭に、張耳以下のさきほど趙軍を挑発した将兵が、漢の本軍に合流した。
韓信は、馬上から全軍を叱咤した。
「諸君、後ろを見るな!後ろには、何もないぞ!命もないぞ!生き延びたければ、前の敵を倒せ!」
彼には珍しい、張り裂けるほどの大声であった。
曹参は、前方を見た。
趙軍が、包むように襲い掛かって来た。
もはや、漢兵にはどこにも逃げ場はない。
曹参は、つぶやいた。
「、、、やれやれ。一刻持ちこたえられるか、どうかであるな。」
彼は、歩卒の部隊に命じた。
「前に出て、盾で守れ。」
次に、弩(いしゆみ)の部隊に命じた。
「歩卒の後ろから、敵を射よ。よく狙って、撃て。」
次に、騎兵の部隊に命じた。
「馬上から、叩け。むやみに馬を、動かすな。落馬せず生き残ることを、優先せよ。」
彼の配下への指示は、簡潔で適確であった。
武勇に気張ることなどなく、官吏流儀の下達に徹していた。もとはといえば、彼は沛県の属吏であった。歴戦を経て将軍となったが、戦いの血に酔い痴れるには、彼の前半生は平凡な人生経験が長すぎた。この絶体絶命の戦場に立ってすら、曹参はまるで県庁の事務をこなすがごとくであった。
趙軍の波が、押し寄せた。
今度こそ、激戦であった。
背後は川で、開かれたのは三方であった。三方を埋め尽くしても、趙軍はまだ一部しか前線で戦っていなかった。それほどに、趙軍はひしめいていた。
李左車は、殺到しても撥ね返されるばかりの趙軍を見て、うなった。
「やはり、漢軍は強い。わが軍とは、違う、、、」
陳餘は、早くも勝利の酔いから覚めて、今は宿酔(ふつかよい)の不機嫌に変わっていた。
「何をしているのか、奴らは!、、、どうして、あれしきの小勢に手間取るのか。押し倒せ!ええい、全軍、投入だ!」
李左車は、ますます表情を厳しくして、陳餘を諌めた。
「これ以上兵を押し込んでも、あの狭い戦場では無意味です!、、、どうして、お分かりにならないのですか。」
だが、陳餘は怒り狂った。
「兵どもが、弱いのだ。将どもが、意気地がないのだ。だから、数で押すしかないではないか、、、十倍の兵の威力を、韓信に見せ付けてくれるわ!」

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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