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十三 兵法の真髄(1)

(カテゴリ:背水の章

朝の空気は、ますます明るさを増していった。間もなく、戦場に陽が射し始める。

陳餘は、言った。
「敵軍は、あのままに居着くか。ますますもって、愚かであるよ。」
李左車は、言った。
「しかし、不審です。将旗はおろか、一切の旗幟が見えません。漢将は、いまだあそこにいないのではないでしょうか。」
陳餘は、言った。
「ならば、どこにいるのか!、、、余は、韓信と張耳の首を取りに、ここに来たのだ。奴ら両名を衆目の前で斬に処すことが、我が名を天下に轟かせることになる。逃がさぬぞ、韓信。肝を喰らってやるぞ、張耳、、、」
陳餘がぎりぎりと歯を軋らせた、そのとき。
山の向こうから、戦鼓の音が響き渡った。
地平をたゆたう暁の雲から、赤い一条の陽光が射した。
それとほとんど時を同じくして、整然として進む縦列の部隊が、戦場に現れた。
遠目からもはっきりと分かる、赤い大旗。
暁の光に映えて、さらに赤く輝いていた。
旗棹の上に付けられた旄(ぼう。からうしの尾の旗飾り)は、それが指揮者の旗であることを示している。
赤旗の上には、「帥」の大一字が筆書され、軍の守護獣として虎の印章が描き込まれていた。
まぎれもなく、大将韓信の旗幟であった。
その後ろには、王の様式で華麗に装飾された、「常山」の旗もまたあった。
張耳の旗に、間違いなかった。
旗を掲げた部隊は、今度こそ趙軍を目掛けて、一直線に進んできた。
陳餘は、拳を握り締めて、腹の底から湧き出る喜びに満ちあふれていった。
「うぬっ!、、、出たか、出たか!」
彼の今日の獲物が、ついに戦場に現れた。
兵の数は、後方で背水の陣を敷く本軍に比べて、さらに少なかった。
両者を合わせても、漢軍と趙軍との兵力差は圧倒的なことに、変わりがなかった。
「張耳、、!」
陳餘は、歩を進める常山の旗を眺めて、むらむらと怒りを積み重ねていった。
今日こそ、張耳を殺さなければならない。
これまで義兄として付き従い、辛苦艱難を共にしてきた張耳を、陳餘はどうしてここまで憎悪するのであるか。
すでに、両者ともに大きくなり過ぎた。互いに数多の子分を従え、家族だの舎弟だのに囲まれる立場になっていた。出世した男は、辛苦を共にした昔の仲間を取るか、それともこれから時代を担うべき新しい仲間を取るかに、迷う。
陳餘は、義兄弟の理想を思い描いていた。
友人からさらに進んで義兄弟の契りを結んだからには、二人は互いに親愛の情もて助け合い、庇い合わなければならない。もし片方が王に昇ったならば、もう片方も等しく富貴を分け合うまでに引き立ててやる。それが、赤の他人とは違う義兄弟の道なのだ。義弟が世に冷遇されたときには、義兄は憤って不正に挑みかかり、共に義弟の仇を討つ。そこまで情を通じ合って、初めて身内と言える。
陳餘は、それが人間の道だと思っていた。彼は、倫理的に潔癖であった。彼は張耳に自分と共に泣き、共に笑い、共に憤ることを期待して、何十年も義弟として仕え続けてきた。いつか自分に苦難があったときに、義兄が己を顧みずに手を差し伸べてくれることを、夢に描いて。
それを、張耳は罵倒した。張耳は衆目の前で、陳餘を辱めた。もはや張耳は、一国の権を司る立場として、陳餘の失敗に我慢がならなかった。
だが陳餘は、張耳に裏切られたと思った。長年期待していたことが壊れたとき、陳餘の義兄への憤りは、赤の他人以上に燃え上がった。今こそ自分の力を見せ付けて、義弟を裏切った張耳に後悔させてやらなければ、彼の気が済まなかった。
陳餘は、眼下の行軍に向けて目をぎらつかせながら、罵った。
「この智者である余と共に進めば、必ず二人して天下を転がす日も見えたというのに。余は、義弟としてうぬをいずれ帝位にまで昇せてやろうと、ひそかに夢見ていたのに、、、空しいわ。全ては、空しくなったわ。」
行軍は、次第に趙軍へと近づいて来た。
それは、明らかに挑発であった。
漢軍は、わずかの兵と共に韓信と張耳を前に突出させて、塁に陣取る趙軍に向けて、早く降りて攻めて来いと煽り立てているのであった。
行軍の歩が、止まった。
巧妙にも、趙軍から弓矢が届く射程の圏外ぎりぎりであった。
陳餘は、吠えた。
「よくぞ参った、韓信。うぬの最後よ、張耳。余は本日勝利して、一人旭日として漢に代わりて天に昇ることとなろう。全軍に伝えよ。あの両旗の下にある甲(よろい)首、全て刈り取ってしまえ!」
李左車は、彼を諌めた。
「陳王― 早まるな!」
だが陳餘は、聞く耳を持たなかった。
「お主には、我が憤りが分からぬ!」
彼は、すでに馬の用意を命じていた。
自ら赴いて、大軍を率いて漢軍を絞め殺すつもりであった。
塁上の各陣から、次々に軍鼓が鳴り響いた。
趙軍に、出撃の命令が下った。
あちらからも。
こちらからも。
洪水の奔流のごとく、兵馬が駆け下り始めた。
「見よ、この大軍!― 韓信といえど、いかにして防ぐこと能うか!」
陳餘は、近衛の兵卒に馬を引かせて、呵呵大笑しながら戦場へと繰り出していった。
二十万の趙兵の流れは、ひたひたと平地を押し包んでいった。
流れは、ほとんど澱むことがなかった。
なぜならば、韓信と張耳の軍は、ほんのわずかの時間に敵と撃ち合っただけで、早くも敗走に移っていたからであった。衆寡の差は、まるで敵わないかのようであった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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