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十二 韓信水ニ背キテ陣ス(2)

(カテゴリ:背水の章

夜は、いまだ明けなかった。

井陘口の向こうには、趙軍二十万がひしめいていた。
高所には塁が築かれて、いずれ山から飛び出して来るであろう漢軍の動きを、一望にして捉えることができた。
「我ながら、水も漏らさぬ布陣であるわい― 漢軍は、すでに三十里の手前にあるのだな?」
陳餘は、隣に控える李左車に聞いた。
広武君李左車は、答えた。
「然り。場合によっては、今日のうちにも現れ出るかも、しれません。」
陳餘の昨晩は興奮して、寝床に着いたのも早々に、暗いうちからもう起き出して前線を視察した。
今日は、彼に取っての大捷(たいしょう)の日であった。
たかだか一万余の敵兵にここまで大仰な兵が必要なのかと言えばちと疑問であったが、そこはそれ、陳餘は戦にも安全を期すのが君子の道であると心得ていた。堂々の陣を張って威力により敵を圧倒し、自分は安全な兵を率いて武勇の栄誉を欲しいままにする。それが、天下の兵を率いたにしえの君主が取った道であると、儒家の学説に耽溺する彼は解釈した。
陳餘は、自慢げに配下の諸将に言った。
「いたずらに戦場で激戦を望むのは、匹夫の勇と申すものであるよ。天下を望む君子にとって、戦とは可能な限り避けるべきもので、しかもやむを得ず手を出すときは余裕綽々と勝たなければならない。見よ、敵将韓信めはついに己の武勇に傲って、我が軍に向けて無謀の戦を仕掛けるに相至った。君子たる者、ああはなるまい。お主らも、余のことをよく倣って後世の鑑とするがよいぞ―」
彼を取り巻く将軍たちの反応は、様々であった。
中には、陳餘に心服してさすが大人(たいじん)の言と、改めてうなずく者もいた。
だが、李左車は違った。
彼は、陳餘に言った。
「これはまるで、家中に入り込んだ野鼠を住人が虜にしようと、罠を張っているような構えです。しかし韓信は、何を仕掛けてくるか分かりません。我が軍は、彼に付け入る隙を与えないのが肝要かと存じます。どうか敵が現れても対峙して、時を過ごしたまえ。これほどの兵力差があれば、待っていればやがて我らに勝利が転がり込んで来ます。」
李左車は、主君が韓信と張耳の首を早く取ってやりたいと、逸っている心理を読み取っていた。君子などと配下に向けては余裕の言を述べていたが、主君の心中の本当は復讐心と功名心が燃え盛っていることを、李左車はもう見逃すことがなかった。偽君子が勝利に逸ったときに偽君子の正体を現せば、傲るのはむしろ陳王の方だ― それが、李左車の主君に対する、厳しい観察であった。
「分かっている。広武君、分かっているよ、、、」
陳餘は、李左車に気のない返事をした。
どうやら今の彼は、配下の進言など聞き流しているかのような気配であった。彼の心は、これから開ける栄誉への展望に、もうほとんど魅せられていた。
誰かが、声を挙げた。
「― 飛び出して、来たぞ!」
将兵は、一斉に眼下の戦場に注目した。
いまだ夜は明け切らず、戦場はよく見えなかった。
だが、目を凝らせば薄明の中に、確かに兵馬の動きが見て取れた。
漢兵は縦列を成して進み、趙軍に一歩一歩と近づいて来た。
一同は、息を呑んだ。
だが、兵馬の列は途上で向きを変えて、今度は次第に遠ざかり始めた。
将兵は、ため息を付いた。
じりじりと、時が流れた。
やがて暁が払われて、敵兵の布陣が明らかに見え始めた。
趙の陣営から、口々に驚きの声が上がった。
「何っ、、、?」
「何だ、あれは?」
漢軍の数は、目視でおよそ一万であった。
その一万の漢軍が、視界の前方を流れる川の手前に集結して、布陣していた。
陳餘は不審に思って、李左車に振り返って聞いた。
「広武君、、、あれは、何を意味するのか?」
李左車は、つぶやいた。
「あれは、背水の陣―」
兵法は、敵と川を挟んだ対岸に布陣することを基本とする。川の流れが、自軍にとって壕の役目をするからである。いにしえの時代に君主が戦役を起こす際には、事前に吉凶を占うことを必ずとした、その占いの集成である『易経』には、川を渉ることが宜しきか否かが、卦面として頻繁に出てくる。それは、川を渉って敵に攻め入ることが、最大の難事だからであった。つまり、川を用いて敵に備えることは、原始的な時代から知られていた兵法の初歩と言うべきものであった。
李左車は、言った。
「だが水を背にしたならば、退くことは能わず、、、敵は、戦って死ぬつもりです。」
それは、全く常識外れの用兵であった。
李左車は、韓信の意図を疑った。
まさかこれほどの謎を韓信が仕掛けて来るとは、彼ですら予想のしなかったことであった。
陳餘は、李左車に聞いた。
「何か、あの兵に仕掛けがあるか。」
李左車は、答えた。
「ありえません。敵の陣は、全くの野戦の構え―」
それを聞いて、陳餘はついに哄笑した。
「何と!、、、韓信めが、窮した余りに自兵を死地に追い込んだか!、、、まさに、これは彼奴の無策を示しているではないか!」
李左車は、言った。
「死地の兵は勇戦することを、孫子は教えています。敵を侮らぬほうが、よいでしょう。」
陳餘は、言った。
「それにしても、韓信が考え付いたのが、背水の陣だったとは!これで、戦地に一人残らず倒れるまで、戦い抜くつもりか。何と韓信という将は、匹夫の勇を選ぶ小人であったことよ、、、底が知れた、底が知れたわ。は!は!は!」
陳餘は、軽蔑の笑いを立てた。やはり世に才の聞こえた人物などは、この自分に及ばない。彼は、人間を侮った。侮りと昂ぶりの笑いは、陣中にひとしきり続いた。

          

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