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十二 韓信水ニ背キテ陣ス(1)

(カテゴリ:背水の章

夜半、漢軍の陣営から密かに出立の用意をする、一団の兵馬があった。

「馬には、ことごとく枚(ばい)を含ませよ。兵卒にも、然り。行軍中に物音ひとつ、立てぬように心を配れ―」 
張敖は、軍吏に命じた。
「出発の際に、各人はそれぞれ一本ずつ引提げて行け― そうだ、そこにある旗だ。必ず、持って行くのだぞ。忘れるなよ、、、」
張敖は、兵卒を見かけるごとに、繰り返し命じた。
彼の横には、鄧陵子がいた。
鄧陵子は、言った。
「将の命令は、一度申せば十分なのです。兵卒はいざ戦場に赴けば、上官から下される命令に必死にしがみ付くことしか、許されなくなります。いやでも、あなたの命に従わざるを得ないのです。今のあなたが為すべきことは、兵卒をいちいち見て回ることではなくて、明日に適確な指揮を行なうことに心を配ることでは、ありませんか?」
鄧陵子に諌められても、張敖はいまだ心落ち着かなかった。
彼は、言った。
「明日は、かつてない決戦となるだろう。吉と出るか、凶と出るだろうか、、、ああ、占卜を立てて問うてみたい心持であるよ。」
鄧陵子は、占卜など全く信じなかった。
「なさりたいならば、どうぞ―」
彼はそう言って、一枚の半両銭を出した。
鄧陵子は、銭を張敖に手渡して、言った。
「擲銭で、吉凶を占う術です。その半両銭は、表の面だけに字が刻まれています。どうぞ三回、投げてみなさい。」
張敖は、言われるままに空高く銭を放り投げた。
落ちた。
裏が向いた。
さらに、二度、三度と投げた。
全て、裏面であった。
鄧陵子は、言った。
「その銭は、表の方がより出易いのです。裏面が三度出たということは、まれなことです。明日の戦は、まれな戦となりましょう― すなわち順当ならざる勝利を得るのは、我が方です!」
張敖は、彼に言った。
「、、、占卜とは、これだけなのか?」
鄧陵子は、言った。
「これ以上、何を望まれる。」
張敖は、言った。
「あまりにも、あっけなさすぎる。もう一度、やってみたい―」
鄧陵子は、彼をぴしゃりと叱り付けた。
「すでに、結果は出たのですぞ。二度、三度と天意に問うのは、天の道を読み間違うことです。この戦もまた、すでに動き始めているのです。あなたは、どうして今になって迷われるのか。今になって迷うことは、結果を悪くすることにしかならないのです。将のあなたは、ただひたすら進むことだけを、考えられよ、、、!」
もちろん鄧陵子は、さきほどの銭の裏表の結果が別のものになったとしても、そのときには別の解釈を立てるつもりであった。彼は張敖を補佐する役として、本軍から別れた二千の歩騎を率いて、やがて夜陰に消えていった。
同じ頃、本軍では夜半過ぎた宿営には珍しく、粥を炊く煙が上がっていた。
「明日の朝は、早い。まずは、食っておけ。」
大将の韓信が命じた、夜食であった。
出来上がった粥は、よく砕いて消化を良くした雑穀を炊き込み、塩をいつも以上に効かせてあった。汗を流す戦闘を明日に控えたための、配慮であった。
韓信は、軍吏や将たちを陣営に集めて、共に夜食の粥を啜った。兵卒たちに配られた料理と、何も変わるものはなかった。
韓信は、粥の箸を休めて言った。
「肉は、今夜食い過ぎると胃腸にもたれるから、明日に取っておくことにした。明日は、趙軍を破ってから兵卒と共に存分に肉を喰らうことにしよう。」
そう言って、再び粥の中の箸を進めた。
将たちは、韓信の調子にわずかに笑った。
韓信の勝利を確信して、同調した笑いではなかった。大将の不思議なまでに落ち着き払った言動に、半ばあきれてまた半ばは感心したまでであった。とにかく、これから死地に赴く軍を率いる大将にしては、韓信は悲壮感が拍子抜けするほどに、足りなかった。
張耳は、無言で粥を啜った。
彼は、明日韓信と共に陳餘を挑発する役目であった。
(数倍、、、いや、数十倍の敵が、我に向けて四方八方から押し寄せて来ることになろうて。この歳になって、このような恐るべき戦の真っ只中に、立つことになろうとは―)
張耳は、戦の前日の今となっては、明日の戦場がいっそ小気味良い心地がしていた。彼は魏公子信陵君に師事した、戦国任侠の生き残りであった。主君の信陵君を始め、戦国の末期を彩った命知らずの壮士たちの姿が、老いた彼の脳裏に甦っていた。
(戦国の終わりと共に、多くの者が秦の侵略の前に死んでいった。俺は死ぬこともなく、生き長らえて秦の終わりを見た。この戦、かつて義弟と呼んだ陳餘と相違えて撃ち合う、無様な戦だよ。だが、やがて戦場の中で死生を賭けて戦えば、俺の無様さも少しは消えて、あの倒れた壮士どもの靴先ほどに、俺の生涯に華やかさが加わるかもしれぬわい―)
張耳は、粥を飲み干した。
韓信は、同席する曹参に言った。
「仮左丞相。あなたの先発する兵は、旗幟を下げておくがよい。最初に戦場で掲げられる旗は、私の漢将旗と常山王の旗だけでよい。その方が、敵に目立ちやすい。」
曹参は、韓信に言った。
「いまだ聞かざる、例ですな。戦場に大将旗だけが、見えるなどとは―」
韓信は、言った。
「それでよいのだ。我が軍程度の兵数ならば、指揮のために多くの旗鼓は必要ない。かえって趙軍は、狭い地点に殺到して指揮が混乱することとなるだろうよ。」
それから韓信は、食い終わって空いた椀を地にことん!と置いた。
彼は、、居並ぶ者たちに言った。
「よし!、、、後片付けなどは、無用。明日に向けて、仮眠を取れ。明日の今頃は、肉と酒を存分に用意しよう。私も、参加する。」
韓信は、宿営の命令のような調子で、言った。
諸将は、了解の返事をした。明日があるかどうかなど分からなかったが、大将のあまりの自然体に感化されたか、彼らの不安も幾分かはどこかに行ってしまったかのように、見て取られた。

          

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