«« ”十九 先生の奪城(1)” | メインページ | ”二十 我は西へ ”»»


十九 先生の奪城(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

酈生は、陳留の県令に会見して、懇々と説得した。

「― そもそも、秦は無道を為したゆえに天下はこれに叛いたのです。あなたがこれから天下の流れに沿えば、今後の成功も見えてくるでしょう。しかし今のあなたは、独り亡秦のために籠城して堅守、、、私は、竊(ひそ)かにあなたのために、危ぶまざるを得ません。」
彼の弁舌には、不思議な説得力があった。ひとたび彼が相手のために説けば、説かれた者はその言葉に引き込まれざるをえない力を持っていた。この弁舌の力こそが、彼の異能であった。しかしこれまでの彼の人生で、この異能が発揮されたことは、一度もなかったのである。
県令は、酈生に説き伏せられて、考え込んだ。
「むむ、、、しかし。」
秦帝国の法は、いまだこの時点では官吏たちの間に健在であった。咸陽の政治を思うがままにする中丞相趙高は、官吏たちに法を苛酷に適用した。わずかの失陥を起こし、一言の言質を与えでもすれば、誰かが咸陽に密告して厳刑が課せられるかもしれない。天下の状勢を見切って秦から逃げるには、この県令はいささか小心であった。
県令は、長く考えた末に、困り果てて言った。
「妄言は、できぬ。できぬのだ、、、」
そう言って、ついに酈生を下がらせてしまった。
真夜中、酈生は県庁内の宿舎から抜け出した。
「― かくなる、上は、、、」
彼は腰の剣を抜いて、するすると進んで行った。
酈生は、県令のことを彼が就任した頃から知っていた。彼が普段自分の屋敷に戻らず、県庁内の一角で寝泊りしていることも知っていた。今夜も、そこにいるはずであった。
「一刺し。大義のためには、一殺もまた、やむをえない。万民の、ためである、、、」
彼は、懐から瓢(ひさご)を取り出した。
一口、飲んだ。
こんな命を賭ける場にも、彼は酒を手放さなかった。
「もう、一口、、、」
もう一杯、飲んだ。
だんだん、気分が高揚してきた。
「孔子曰く、


― 己を行なうに恥有り、四方に使いして君命を辱(はずか)しめざる、士と謂うべし(『論語』子路篇)。
かくのごとく使者とは、君命を果たすために全てを尽すべし。それが、国家の柱石たる士というものである。なのに、士たらざる士が何と当今の国家には多いものよ、、、」
彼は、いつしか背筋を伸ばして真っ直ぐ歩き始めた。年は取っているが、身長八尺の偉丈夫であった。挿し入る月光に照らされて、酈生の影は歩く回廊の奥深くまで届き渡った。
彼は、いつしか吟じ始めた。
正月繁霜  正月、霜降りる
我心憂傷  我が心、憂い傷付く
民之訛言  民の妄言は
亦孔之將  広がって尽きぬ!
念我獨兮  我、ただ独り
憂心京京  憂いに憂いて
哀我小心  哀し、我は小心
癙憂以痒  ついに、病んでしまいました。

『詩経』の一句であった。
「壮士気取りは、儒者の取るところではない。しかし、今夜の私は、何とも悲壮なることよ!」
彼は、歌いながら悠々と進んで行った。
父母生我  父母は、なぜに我を生んで
胡俾我瘉  こうも、苦しめるのか
不自我先  我が世ほど、狂った世があったろうか
不自我後  我が世ほど、荒んだ世が来るだろうか
好言自口  口から出るのは好言
莠言自口  口から出るのは醜言
憂心愈愈  だから、私はいよいよ憂心つのり
是以有侮  それゆえ、世に侮られるのだ。

彼は、歩を進めて行った。
酒は、どんどん進んで行った。
ちょうど酒が無くなった頃、県令のいる部屋に着いた。
彼は、勢いよく戸を開いた。
「ごめん!― 義のために、お命頂戴する!」
彼は、大声で物申した。
もはや、暗殺どころではなかった。
しかし、中からは何の反応もなかった。
酈生は、不審がった。
「ん?、、、部屋を、間違えたか?」
部屋の中には、燭台の明りがぼんやりと灯っていた。
中から、男が進み出て来た。
酈生は、その顔に見覚えがあった。
男は、言った。
「― すでに、全て片付けました。どうぞ県令の首を、沛公のところにお届けください、、、兄上。」
そう言って、酈商はにこにこと笑った。
酈生は、言った。
「小孩子か― お前は、なんでここにおる?」
弟は、苦笑した。
彼は、今夜配下の者どもに指示して、陳留の城市を制圧したのであった。彼の下には、実に四千人の子弟が付き従っていた。その中には、陳留出身の者も大勢いた。だから、酈商の命令一下に、この城市を略取するができたのであった。
酈商は、兄に言った。
「差し出がましいことかもしれませんでしたが、兄上を放っておけず―」
兄は、弟に答えた。
「まことに、気勢を削がれたわい。」
そう言って、肩の力を抜いた。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章