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十九 先生の奪城(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

「陳留です。」
酈生は、沛公の問いに答えた。

彼は、言った。
「陳留は、天下の要衝、四通五達の土地です。今、その城内には粟(ぞく)が山と積まれています。これを取らずして強秦に攻め入るのは、虎口に進んで入るようなものです。」
もとより、沛公軍は陳留を取るためにこの高陽まで出向いて来たのであった。だから、酈生の言葉じたいには目新しい策はなかった。
だが、酈生はさらにすすんで進言した。
「私は、陳留の県令と知己の間柄にあります。どうか、この私が使者に立つことを、お許しください。説いて、あなたに降伏させましょうぞ。もし県令が聞き入れなければ、兵を挙げて城を攻めなさい。私が、内応いたします。」
老儒生は、大した冒険を申し出た。
沛公は、大いに喜んだ。
「いや、すばらしい!先生、まことに、すばらしい!、、、どうか、お願いします。」
酈生もまた、沛公から直々に依頼を受けたことを、大いに喜んだ。
早速今夜、陳留の県令のもとに彼を使者として送ることとなった。

酈生は、自分の里(り)に戻った。
彼は、にわかに里の者たちを集めて、金品を分け与えてやった。
「これより、私は沛公のもとで働くこととなった。この里とも、お別れだ。皆の者には、いろいろと世話になったな!、、、いろいろと。」
酈生は使者として赴くために、沛公から相当の金品を与えられていた。彼は、自分の里に帰ると、その一部を割いて近所の者に与えてやった。
日頃貧乏な狂生から思わぬ高価な品々をもらって、住民たちは驚いたり呆れたりするばかりであった。
酈生は、笑って言った。
「驚くでない。諸君らにやった金品は、使者としての私個人の取り分だよ。だが私は、仁義の道に楽しむ儒者だ。富貴栄達に楽しむのは、私の道ではない。遠慮せず、取っておくがよい、、、」
彼のみずぼらしい陋屋から、高笑いが聞こえ出て来た。
その陋屋に、珍しい人物が訪れて来た。
里の者たちが、彼のもとを一通り去った後のことであった。
訪れて来た男が、言った。
「兄上、、、何やら、里中がずいぶん騒がしいですな。いったい、何があったのですか?」
酈生は、入って来た男を見て、答えた。
「ん?、、、小孩子(こぼうず)か。戻って来たのか?」
入って来た男は、苦笑して言った。
「― 小孩子は、いい加減やめて下さいよ。それより、何があったのですか?」
入って来た男は、酈生の弟の、酈商であった。商は、兄よりもずっと若年の、風貌優れた青年であった。すでに弟は成長しているのに、兄の酈生はいまだに彼のことを昔のままに小孩子と呼びかけているのであった。
酈生は、弟に何があったのかを、詳しく聞かせてやった。
酈商は、その話を聞いて青くなった。
「― それは、、、無謀です。兄上!」
酈生は、言った。
「いや。私には、確信がある。県令を、この三寸の舌で説き伏せてみせる。万一説き伏せることができなければ、県令の首を刎ねて沛公に献上するまでよ。」
そう言って、彼は呵呵大笑した。
弟は、心配して言った。
「― ひょっとして、また酔っておられるのですか?」
兄は、むっとして返した。
「酔ってなどは、おらん!、、、孔子曰く、『酒は量無くも、乱に及ばず』とな。」
「つまり、飲んでいるのですね?」
「飲んでも、決して乱れぬ。それが、君子の道なのだ。わかったか?」
兄の性質として、懐が少し豊かになれば必ず酒を片手にする。それは、昔から決まりきったことであった。そのために、彼は「高陽の酒徒」などと自称していたぐらいであった。
弟は、言った。
「沛公にとって、兄上などは使い捨てなのですよ。試しに、やらせてみただけです。それをご自分から売り込んで、死地に赴くとは、、、残念だ!」
弟は、兄の無謀を悔やんだ。
悔やんで、兄に衷心から言った。これまでの彼の奇矯な人生を、こうして自ら奇矯に投げ出すのであろうか。長い年月を共に過した兄の数少ない親類であるからこそ、弟は嘆息して悔しがった。
しかし、酈生は嘆く弟に対して、にわかに向き直った。
彼は、真面目な顔になって、弟に言った。
「― 私は、これまで何一つ自分で為すことができなかった。もはや、危険を避けて生を続ける時は、過ぎているのだ。この使命が危険なことぐらいは、私も分かっている。だが沛公から直々に命を受けることができたこの機会を、私は喜んで受ける。私は、この天から与えられた命を燃やさなければならない。そうしなければ、生を享けた意味もない。これが、私にとって最後の機会だ。お前に分かってくれとは、言わないよ。」
それから酈生は、弟に親しく近寄った。
彼は、弟の手を取って言った。
「私の観る限り、沛公は賢明な人物だ。彼は酷(ずる)いお人だが、人の上の上に立つには、あれぐらいでないと務まらない。だから、私は彼に賭けた。― お前も、できれば沛公に付いて行くとよいぞ。この使命が成功したら、お前を沛公に紹介してやろう。」
「兄上―」
これまで酔っていたような人生を続けていた、兄であった。
だが、今の兄は正気のようであった。彼に幼少の頃から世話されて来た酈商は、兄がこのように正気である姿を見たことがなかった。多少酒が入っていても、今の兄はかってない程に、正気であった。
弟は、それ以上兄に言葉を掛けることが、できなかった。
かくして、酈生は高陽を出て、陳留の城内に赴いた。
沛公の使者であったが、彼の服装はいつもの儒者のままであった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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