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十八 酔狂先生(3)

(カテゴリ:楚滅秦の章

沛公は、外から大声で怒鳴った男について、彼の正体が儒者であることを聞いた。

それで、わざと女を侍らせたままにして、男を奥に通したのであった。もちろん、来たらいつものように罵倒して、ぶちのめすつもりであった。
沛公は、口だけで奇麗事を言う学者という人種が、大嫌いであった。
(俺は一年前まで、秦に追われて逃げていた身だぞ。その前は、ただの亭長だ。それが力を得た途端に、儒者とかいう鬱陶しい奴らが、蝿のように集まって来やがる。奴ら、俺に諸侯らしく礼儀を正して君子となりたまえとか、説教しに来る。俺を、堯舜の弟子にならせたいらしい。堯舜に学べ?、、、礼楽を整えろ?、、、うるさいよ、この俺のどこが君子だ。俺はお前らに礼儀なんか説教してもらわなくても、人を動かすことには誰にも引けを取らない。あいつらは、俺に会ったらいにしえの故事とか何とかやたらと引き出す。学があることを見せて、俺を感心させたいらしい。だがそのくせ、実のあることを何も言いはしない。へ、へ、へ!残念だな。俺は、お前らにだまされないぞ。)
沛公は、儒者たちのことをすっかり見切っていた。奴らは、秦朝で余計物扱いされていた連中だ。それで、天下が鳴動したので諸侯に取り入って、地位を得ようとしている。下心が、見え見えだ。そう見下して、儒者が来るたびにこうして侮辱を繰り返していたのであった。
酈生は、だらしない男の前で、立ち尽くしていた。
沛公は、言った。
「― 儒者は、礼儀が大事だろうが。諸侯の前だぞ、拝礼せんか!」
野人流儀の、凄みであった。これまで会った儒者ならば、沛公がこう言えば慌てて跪(ひざまず)き、恭しく拝礼するだろう。野人に礼儀を使う滑稽さをひとしきり笑ってから、沛公は冠に小便を掛けるのだ。
しかし酈生は、両の手を合わせて、軽く会釈しただけであった。
それから、沈黙した。
沛公は、これまでとは少し勝手が違う相手に、さらに罵倒を加えた。
「お前ら儒者の得意は、礼儀だけだろうが!、、、なのに礼儀も知らん儒者が、俺のところに何をしに来た!」
酈生は、言った。
「― 足下(あなた)は、、、」
彼は、沛公を諸侯として敬うことなく、「足下」という通常の敬称で呼び掛けた。
酈生は、続けた。
「足下は、秦を助けて諸侯を攻めようと思われるのか?それとも、諸侯を率いて秦を攻めようと思われるのですか?」
この言葉は、痛烈であった。
沛公は、直ちに怒った。
「天下は秦に長らく苦しめられていたからこそ、諸侯は相率いて秦を攻めているのではないか!それをなんで俺が、秦を助けて諸侯を攻めるなどと言うかっ、豎儒(こじゅ)!」
沛公は、酈生を豎儒(こじゅ)とまで呼ばわった。「儒者のこぞう」という、ずいぶんな罵りである。
だが酈生は、このとき立派であった。
彼は、沛公に言った。
「必ず衆を集めて義兵を合わせ、無道の秦を討とうとなさっている。それならば、足を投げ出して年長者と会見するのは、よろしくない。」
酈生は、沛公に礼儀以前の礼儀を、説いたのであった。
いったい年長者に対して無礼に振舞うようなことが、世間で許されるだろうか?
そのようなことは、儒者が説く以前に、人間として許されることではない。
そんな振舞いで、大衆や諸侯が付いて来るはずが、ないではありませんか、、、
酈生は、主流の儒者たちとのつながりは少なかった。だがむしろそのために、読書によって儒家のいちばん基本的な教えを、迷わず掴むことができた。礼儀とは、難しいことではない。人ならば必ず行なうべき、当たり前の道なのである。それを、酈生は沛公に示したのであった。
「む。そう、、、、ですな。」
酈生の態度は、これまでに彼が会った儒者とは、明らかに違うものがあった。何か、実があった。沛公は、酈生の違いに気が付いた。
沛公は、相手が人物と分かれば、まことに素直であった。
彼は、女たちを斥けた。
それから衣服を整え、居住まいを正した。もとより、若い時には諸国を回ったり、長じては郷里で長らく生活していた男であった。人付き合いの礼儀ぐらいは、知っていた。ただ、最近は地位が急上昇したために、少し行動にはったりが入っていたことは否めない。彼は本日酈生に言われて、何やら郷里の時代の原点に戻らされたような気分がした。
「― 酈生。ご無礼を、いたしました。」
今は沛公の方から、拝礼した。
「― 何の。やはり、沛公は人物であらせられた。」
酈生は、にこやかに拝礼して返した。
沛公は、酈生を上座に据えて、その経綸を聞いた。
酈生は、自分が読書で得た知識のあるがままを、開陳した。
六国が、合従連衡していた時代のこと。
秦が強大となり、ついに始皇帝によって一国ずつ破られていった経緯のこと。
そして、始皇帝の死後に天下が右に左に揺れ動いている、昨今の状勢。
酈生は、言った。
「陳勝が大澤郷で蜂起してから、かれこれ一年と半年になります。争乱は長引き、各地で餓えの苦しみが拡がっております。餓えの不安で、今や天下の民は恐れ戦いているのです。民の不安を鎮める者こそが、やがて必ず天下を保つこととなるでしょう。」
沛公は、聞いた。
「なるほど、、、それは、その通りですな。」
沛公は、もとより沛の農村の出であった。この戦で、民がどのような思いでいるのかを、よく分かることができた。それで、酈生の言にはうなずくところがあった。
酈生は、言った。
「とにかく、食を得ることです。兵は、食を与えなければ郷里を掠(かす)めるばかりです。民を傷つけないために、必ず食を得なければなりません。」
沛公は、聞いた。
「なるほど。それも、いにしえの智恵ですか?」
酈生は、胸を張って答えた。
「さよう。殷朝を興した湯王、周朝を興した文王・武王は、民に渇望されて出馬いたしました。武王が北に征すれば、南の民は後回しにされたことを恨み、武王が東に征すれば、西の民は後回しにされたことを恨みました。彼ら聖王の偉業は、まったく民に支えられたから実現したのです、、、公よ、疑うことなかれ。」
沛公は、感心した。
彼がこれまでに会った儒者に欠けていたのは、具体的な計略であった。
酈生は、沛公にどのように進むべきであるのかを、言うことができた。だから、沛公も酈生の言については、聞く耳を持つことができた。
沛公は、聞いた。
「では、酈生― 今後、どのような計略がよろしいと、お考えでしょうか?」

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章