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十八 酔狂先生(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

確かに、狂生の身なりは儒者であった。

側注(そくちゅう)という冠を被り、ゆったりとした袖の禪(ひとえ)の衣を付け、腰に剣を纏う。礼を重んじる儒者は、必ず服装をおろそかにしないのである。狂生は貧乏で零落していたが、それでも常に頭上の冠を正しく着けていた。冠を正すために、毎日髪を梳いて束ねる手入れを怠らなかった。儒者の服装を続けることは、狂生と呼ばれた彼が毎日を過すための、心の支えのようなものであった。
騎士は、狂生に言った。
「沛公はね、儒者を罵ることにかけては人一倍です。地位ある人ですから、沛公のところに各地の儒者が会見に来るんですよ。ところが沛公は、彼らを痛烈に罵ります。たぶん儒者が諸侯の礼儀なんかを教えようとするのが、気に入らないのですよ。それで、ある時やって来た儒者の冠をひったくって、その中に小便をしたりしました。それが面白かったのか、最近は儒者が来るたんびに冠をひったくっては、小便するんです。」
「か、冠に、小便!」
狂生は、沛公のあまりの無礼さを聞いて、驚いた。
騎士は、続けた。
「そうです、だから、きっとあなたが行っても、同じことになるのですよ。どうして私があなたを沛公に紹介するのが嫌なのか、これで分かったでしょう?」
狂生が、どうして儒者となることを選んだのかは、よくわからない。
儒家は、墨家と並んで、戦国時代に大流行した思想であった。韓非がこの両者を目の敵にして攻撃したほど、各国でもてはやされたものである。狂生もまた、流行に乗ったのであろうか?― そうかもしれない。彼は、読書に読書を重ねた。狂生の出身地の高陽は、儒家の本場である魯や斉から遠く離れていた。だから、彼は読書をしたが、当時の儒家の主流とはあまり付き合うことがなかったであろう。彼は、『論語』や『孟子』にあますところなく展開された、君子としての生き方にきっと感銘を受けたのに違いない。君子とは、学を修めて礼を守り、世間に惑わされずに道を守る目覚めた文化人なのである。

― 仁に非(あら)ざれば為すことなく、礼に非(あら)ざれば行なうことなし。

『孟子』の言葉である。狂生は、このような言葉を心の友にしていたに、違いなかろう。そしてそのような君子道は、斉や魯で当時発展していた本場の儒家の思想とは、少し外れていた。
狂生は、へこたれることがなかった。彼は、すでに思いつめた老境の人であった。
彼は、騎士に言った。
「君はこう言ってくれれば、よいのだ。『我が郷里に、酈生(れきせい)という人物がおります。六十余歳で身長八尺、人は狂生と呼んでいますが、彼じしんは狂ってはおらぬと言っております』とな。私は、この高陽で沛公をお待ちするよ。」
彼の言葉にあるとおり、狂生の姓は、酈(れき)であった。酈食其(れきいき)が、彼の本当の姓名である。敬って称せば、酈生と言う。しかし、この高陽で彼が酈生と呼ばれることは、近年すでになかった。だがこれから後は、彼のことを史書どおりに酈生と呼ぶことにしたい。
酈生は、騎士に何度も何度も頼んだ。ついに、騎士は根負けした。
「取次いでおきますが、後は知りませんからね。」
騎士の言葉に、酈生は答えた。
「よい。後は、この私が沛公になすことであるよ。」
彼は、わずかに笑った。

そして沛公の部隊が、高陽にやって来た。
目指す陳留を、遠巻きにする城市である。沛公は、ここに陣を張った。
沛公から、酈生に対して声が掛かった。
騎士の紹介が、沛公の耳に達したのであった。
「ありがたい!、、、行くぞ、私は行くぞ!」
彼は勇躍して、沛公のところに駆け付けた。
酈生は、沛公の宿舎にやって来た。
彼は門衛の兵に名刺を渡して、会見を望んだ。
兵が奥に入って、しばらくして戻って来た。
兵は、酈生に伝えた。
「今は、、、だめです。」
酈生は、不審に思った。
「なんで?」
兵は、酈生に答えた。
「公は、取り込み中ですので。」
酈生は、重ねて聞いた。
「取り込み中?何を?」
兵は、困って言った。
「とにかく、、、だめなんです。お帰りください。」
そのとき、中から男の歓声が聞こえて来た。ばしゃばしゃ!と、水の跳ねる音がしたかと思うと、女たちの黄色い声が挙がった。男はさらに卑猥な言葉を連ねて、外までまる聞こえであった。
酈生は、怒りの色を見せた。
彼は、兵に言った。
「― もう一度沛公のところに行って、取り次げ!高陽の酈食其は、沛公に天下経営の策を献じようとしているとな!」
中に聞こえるほどの、大声であった。
兵は、びっくりして名刺を取り落としてしまった。慌てて拾い、奥に走って行った。
それからしばらくして、中から門が開いた。
酈生は、宿舎の中に通された。
奥が、沛公との会見所であった。
酈生は、中に入った。
沛公劉邦が、いた。
彼は、机の上に腰掛けて、大きな洗盤に両足を突っ込んでいた。
「ああん―?儒者か。小便、引っ掛けてやろうか?」
彼がそう言うと、両隣にいた二人の女が、けらけら笑った。
以前、彭越からもらった女たちを、沛公はここにも連れ込んでいた。
沛公は、足の脛を放り出して、女たちに洗わせたままであった。局部まで、見え隠れするような痴態であった。
酈生は、沛公から侮る視線を投げ掛けられた。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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