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十八 酔狂先生(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

北で、項羽は驚くべき戦いを行なっていた。
しかし、中国は広大である。

河水(黄河)の南には、北の諸国よりもさらに多くの城市があって、そして当然のごとく戦いがあった。
ここで、物語はもう一人の男、沛公劉邦に目を向けなければならない。
沛公はさきに昌邑を攻めたとき、彭越と盟約を結んだ。それから後の沛公の目は、西に向けられることとなった。彼は、自分の軍を増強することに専念し始めた。
沛公は、おもむろに動き出した。北の趙で、項羽が章邯の包囲軍を大破した直後のことであった。以降、項羽と沛公は完全に別々に戦を進めることとなる。
まず沛公は、魏の皇欣・武蒲と共に再び昌邑を攻めた。だが陥とす以前に、早々に兵を転進させた。この頃の彼は、まだ手探りの状態だったのであろう。彭越に囁かれて、すでに彼は予感を得ていた。しかし本当にその予感がものになるかどうかは、まだしかとは分からなかった。
この時の沛公には、自分の命運に勢いを付けるための、呼び水が必要であった。
その、呼び水となるものとは?
魏都の大梁の東に、陳留という要衝があった。陸路から行っても、水路を通っても、西方への交通の入り口であった。しかも、陳留には秦軍が有事に備えて、大量の糧食を備蓄していた。
この城市は、いまだに秦軍が死守していた。魏の方面で戦を続けるためには、兵糧の元であるこの土地を必ず押さえておかなければならなかったのである。逆に言えば、この陳留を取ってしまえば、秦軍は魏で戦を続けることが困難になること必然であった。
この陳留の手前に、高陽という名の小さな城市があった。
ここに、沛公軍の一騎士がやって来た。この城市の、出身者であった。
沛公軍は、陳留を攻めようとしていた。この要衝の意義を知って、兵を進めて来たのであった。それで、近郊の高陽もまた沛公軍の支配下に置くこととなった。やって来た騎士は、沛公軍のために郷里を接収するのが目的であった。
自分の生まれた里(り)に戻った騎士を、訪問する者があった。
「― ごめん!、、、会わせたまえい!」
真夜中であった。
すでに里中の誰もが、寝静まった頃である。その只中に、大きな男の声がやかましく響いた。
「― 会わせたまえい。会わせろ。会わせておくれよ!」
家中の者が、怒って返答した。
「あんたか!、、、寝てる最中に、うるさいぞ!用があるなら、朝になってから来なさいよ!」
外の男が、答えた。
「― 大舜はひとたび善言を聞かば、禦(とど)むること能わざるほどに決然と動いたと言う。それがし、いま志が大いに湧き上がって、もはや居ても起ってもおられぬ。我が心中を量りたまえ、量りたまえい!、、、」
家中の者が、舌打ちをした。
「まーた、酔ってやがるな!」
外の男は、答えた。
「― 今日は、酔っておらぬぞ、、、そんなに。」
家中の者が、怒鳴りつけた。
「とにかく、帰りなさい!」
外の男が、怒鳴り返した。
「― いいや、帰らん!あんたの家の若いのに、会わせなさい!、、、これは、天下を議する大事なのだ!郷党ごときの小事など、歯牙にもかけられぬ!」
このような押し問答が、果てしなく続けられた。
里の他の家の者まで、起き出してしまった。
とうとう、家中の者は根負けして、男を中に通した。ただし、その時にはすでに夜が明けてしまっていた。
「狂生、、、いったいそれがしに、何の用ですか。」
騎士が、あきれ顔で男に対面した。
男は、狂生すなわち酔狂先生と呼ばれていた。すでに歳は六十余りで、いっぱしの学があったために、敬って先生呼ばわりされていた。しかしその人となりは奇矯にして狷介、郷里の者たちと相容れることを知らなかったために、酔狂の呼び名を付けられていた。
狂生は、騎士に単刀直入に言った。
「この私を、沛公に紹介せい。私は、沛公の下に馳せ参ずることに決めたのだ。沛公は、人材を広く求めているというではないか。この高陽にまで、噂が伝わっておるぞ?」
狂生が言ったのは、本当のことであった。
沛公は自軍を増強するために、騎士のような他国出身の配下たちに郷里の有望な人材をなるたけ推挙するように申し付けていた。
騎士は、狂生を見た。
彼は、その志が本気である目をしていた。
だが、騎士は頭(かぶり)を振った。
「― だめですね。あなたを沛公に推挙など、できません。」
狂生は、騎士に畳み掛けた。
「この私が沛公の下に赴くのは、天下のためなのだ!沛公は人となりは傲慢であるが、その奥に深い計略を持っていると聞いた。これまでの彼の戦い方を見れば、時に勇猛に進むかと思えば、またある時には無理押しをせずにさらりと引く。兵をよく統率して戦い、しかし調略も用いて戦わずして益を収める。その緩急自在の用兵は、まさしく知将と言える。その上、雄大な志を持っていると言う。これはまさに、人物だ。だから、この私は沛公のもとに行かねばならぬ。沛公のために、働こうと願っているのだ。私には、一片の私心もない。それを推挙できないとは、一体どういうことだ?」
狂生は、顔を紅潮させて説きに説いた。
騎士は、しかし熱くもならずに、彼に言った。
「― あなたが沛公を説き伏せるなど、無理ですよ。この郷里の人たちにすら見捨てられているあなたが、なんで沛公の信任を得ることができますか?」
狂生は、読書を好んだ。だが、貧乏であった。だいたい学がある評判があれば、県の有力者あたりから招聘の声などが掛かってくるのが、普通なのである。ところが、この狂生は貧乏暮らしのままであった。志が高すぎて、小人と見切った者からの招きなどは断り続けたのかもしれない。だがそれも、若い頃のことであった。年を取ってからは、まったく世間から見捨てられた先生であった。彼がありついた職は、ようやく監門吏(かんもんり)であった。つまり、門番である。門番は、郷里の正統な職に付かない者のための職で、半ば余所者扱いであった。
そのような暮らしをしていた彼であったので、騎士が推挙を断ったのは致し方なかった。
それでも、狂生は執拗であった。
「沛公は、小人どもとは違う。私は、このような時にこのような人物の下に馳せ参ずることを、待ち望んでいたのだ。頼む、私を推挙してくれ。もう私は、老いてしまった。もう、私の人生には後がないのだ。このまま何もせずにむざと死んでいくわけには、いかないのだよ、、、」
哀願する、狂生であった。
しかし、騎士は最も肝心なことを、彼に言った。
「あなたは、儒者でしょう。沛公はね、儒者がいちばん嫌いなのですよ。」

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章