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十七 解放の後(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

鉅鹿の城内で、項羽は趙王歇からも勇戦を称えられた。実権は張耳と陳餘の手にあるとはいえ、彼もまた趙国の君主として籠城を続けていた身であった。

趙王は、項羽を激賞して言った。
「― 上将軍の武勇は、前代未聞のもの。この上は今回の勝利を祝って、諸国の将を集めて華やかなる宴を催したいと思うが、、、もちろん、主賓は上将軍に間違いない。」
にこにこと提案した趙王に、しかし項羽は答えた。
「戦は、まだ全然終わっていない。それに、戦で苦しんだのは将ではない。兵卒たちだ。将だけを集めた宴会など、何の意味があろうか。」
そう言って、趙王との会見を打ち切ってしまった。
残された趙王は、顔を曇らせるばかりであった。
万事がこのようであったため、項羽は各国の諸将たちに対しても、軍事以外のいかなる会見も持たなかった。宴席で行なう外交などは、彼の行動に挟まれる余地がなかった。諸将は、楚の上将軍の若さと若さゆえの厳しさに、戸惑った。だが戸惑いながらも、従うより他はなかった。
項羽は、鉅鹿城内に本陣を構えた。
後方の范増から、書簡が届いた。
彼はさすがの老齢ゆえ、項羽と共に前線に急行することができなかった。彼は、後衛から項梁に託された若者の勝利を聞いた。
「やはり、武信君が申した通り、彼は麒麟児であったか―」
范増は、しみじみと感銘を受けた。
それで、彼は勝利した項梁の甥に対して、書簡をしたためて送った。
范増が項羽に宛てた書簡には、素直に項羽を称える言葉が書かれていた。
だがそれと共に、最後に一言の忠言が付け加えられてあった。

― 集まった諸侯諸将には、頭を低くして十分に気遣いをなされよ。あなたは、まだ年若い。若年のあなたに命じられると心中で釈然としないのが、世の人の習いなのです。それから汚れた者を、もはや拒まれるな。あなたは、すでに巨大となろうとしております。大海は、清い流れも汚れた流れも全て飲み込むゆえに、大海なのです。汚れた者が流れ込むことを拒めば、やがてその汚水は地上にあふれ返って、多くの土地を汚すことでしょう。この老亜父の言葉、よくよく聞きたまえ。

項羽は、亜父の書簡をありがたく読んだ。
しかし、最後の忠言が彼に届いたかどうかは、わからなかった。彼は、忙しかった。軍中では、早くも次の作戦の軍議をしなければならなかった。
章邯は鉅鹿の包囲を捨てて、棘原に籠って亀のように防禦を固めていた。彼は敗れたとはいえ、戦を放棄するような将ではなかった。彼は、自分が亡んだときが秦帝国の終わりであることを、よく分かっていた。
項羽は、集まった諸将に言った。
「もはや秦軍は、手負いの状態だ。このまま一挙に棘原を攻めて殲滅するべきだと思うが、いかに?」
季布が、項羽の言に賛同した。
「まさに、我らはすでに無敵!、、、この勢いをもって、秦に止めを指すべし!」
龍且も、言った。
「戦は、『勢』が重要。激水がひとたび流れれば、大石を転がすにも足る。それが『勢』というものです。時を措かず、進んで攻めるべきであると思います。」
彼らは、軍中の勇将であった。
しかし、陳平は反対の発言をした。
「章邯を侮っては、なりません。長期戦に備えて、兵を漳水の南まで戻されよ。」
陳平の言葉に、鍾離昧が言った。
「我らはすでに秦軍を大破した。上将軍は天下無敵の名将だ。上将軍の旗の下で、どうして長期戦になどなろうか?」
陳平は、答えた。
「― しかし、章邯もまた古今の名将ですぞ。上将軍も、将が将を知られるならば、彼が容易には屈服しない男であろうことがお分かりであると存じますが、、、?」
項羽は、しばし瞑目した。
白熱した軍議は、一旦中断となった。
韓信もまた、今日の軍議に居合わせていた。
「上将軍は、攻城線が得意でない。この戦、あとしばらく続くだろう、、、」
彼は、楚軍が本陣としていた小宮殿から、外に出ようとしていた。
宮門に差し掛かったとき、若い女の声に呼び止められた。
「郎中さん、郎中さん、、、」
韓信は、声の方を向いた。
そこには、昨日張耳の側に寄り添っていた少女の姿があった。
「郎中さん、お聞きしたいことがあるのです。」
まだ十五にもならぬ姿の、小女児(こむすめ)であった。そのくせ、韓信はぞくりとした。それほどに、妖艶な空気を漂わせている少女であった。
「な、、、何でしょうか?」
韓信に対して、少女は聞いた。
「― 項上将軍の後宮に入るには、楚のどなたに頼めばよろしいのでしょうか?」
韓信は、少女の言葉に驚いた。
少女は、聞いた。
「ねえ、教えてくださいよ。あなたは項上将軍に近いから、知っているでしょう?」
韓信は、言葉を返せなかった。
「ど、どうして、そのようなことを、、、」
少女は、いとも簡単に答えた。
「あのお方は、もうすぐ天下を取られます。我が父のためにも、そして私のためにも、あのお方のために子を産みたいのです。」
少女は、にこにこと笑った。
笑えば、何とも魅力的であった。
韓信は彼女に圧倒されて、しかし言わざるをえなかった。
「だ、、、だめですよ。上将軍は、一人の女性しか気に留めていません。他の女性が入り込む隙は、ないですよ。」
少女は、不審げに首をかしげた。
「― そんなはず、ないじゃない。男なんだから。」
韓信は、重ねて言った。
「本当だ。本当だよ。とにかく、上将軍に近寄ろうなどと、考えないほうが、いいよ。」
彼が何度も否定するのを聞いて、少女は口を尖らせて、言った。
「― ちぇえっ。あなたに聞いたのが、間違いだったよ。」
そう言って、くるりと後ろを向き、ついと駆け去ってしまった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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