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十七 解放の後(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

章邯の秦軍は、鉅鹿の包囲を断念して、南の棘原に撤退した。

楚軍の、完勝であった。
秦軍は、三将軍と多くの兵卒を失っただけではなかった。趙を亡ぼして圧倒的優位に立ち、楚以下の諸国を追い詰めるという戦略の根本が、失われたのであった。それは、取り返しの付かない敗戦であった。
鉅鹿郊外の野に、勝利した楚軍が集結していた。
全軍の中心に、項羽が立っていた。
諸将、兵卒が皆、彼を囲んで伏し拝むこと、神人を仰ぐがごとくであった。
「― 我らが勝利を祀ろう、、、これへ。」
捕えられた敵将の王離が、引き立てられて来た。
すでに、鼻は削がれ、足首から下は失せていた。
項羽は、彼の頭を一刀のもとに薙ぎ払った。
それから、彼は切り捨てた王離の首を昇る朝陽に向けて、高々と掲げた。
「― この私は、天に守られて勝利を得た、、、天に、感謝する!」
耳をつんざくような歓声が、沸き起こった。
やがて、将卒が揃って項羽のために万歳を繰り返した。
押し寄せる人の波の中に、韓信が立っていた。
彼は、踊り上がって喜ぶ楚兵たちの中で、一人腕を組んでいた。
「何という、男だ、、、この男が、秦を亡ぼすのか、、、」
彼は、この戦いの間、ひたすら項羽のために働いた。彼に、賭けたのであった。そして賭けは、予想をはるかに上回る結果を出した。そのことだけは、満足であった。だがしかし、得られた結果があまりにも巨大であることに、今は思いを馳せざるを得ない気分になった。彼ですら、項羽が出した奇蹟の結果に戸惑っているのが、本音であった。
「秦を亡ぼした後は、どうなるのか?、、、項羽は、この天下をどうしようと、言うのだろうか、、、?」
彼は、歓声に包まれる項羽の姿を、眺めた。
そのすぐ横に、陳平の姿が見えた。
彼は、韓信と違って項将軍にすぐさま駆け寄り、万歳を繰り返す輪の中に参加していた。
もう、彼はすっかりこの奇蹟の男に寄り添う道を、進んでいたのであった。

項羽率いる楚軍は、解放された鉅鹿城に入城した。
陳餘らの趙軍や、斉軍、燕軍なども楚軍の入城を待ち構えていた。
彼らは、先頭を進む項羽の姿を見ると、ひたすらにひれ伏すばかりであった。
彼らは、項羽の軍の信じ難い強さを、目の当たりにした。
戦闘の最中、陳餘の軍などはそれほど遠くにいなかったにも関わらず、塁壁の向うで戦況の経過を待っているばかりであった。韓信や章邯の想像すら超えていた項羽の戦を、陳餘が理解できるはずもなかった。
項羽の前に、城門が開いていた。
中から、右丞相の張耳が現れた。
彼は、兵卒が担ぐ板に乗せられて、進んで来た。韓信が以前会った頃から比べて、その姿は著しく衰えていた。
張耳は、項羽の前に進むために、板を降りた。
地に足を付けると、体がよろりと揺らいだ。すでに、足の力も失せ果てていた。
「父上、しっかり、、、」
横から飛び出して、張耳を支えた少女がいた。
彼の養女、黒燕であった。
黒燕は、養父の張耳のところに戻って、彼と共にこの鉅鹿で籠城していたのであった。
張耳は、黒燕に支えられて、項羽の前に進み出た。
彼は、平伏して言った。
「厳しい戦で、ござったわ、、、希望を、失いかけました。我らは、見捨てられておりました。」
籠城戦では夜に寝ることすらできず、援軍は至らずに士気の衰えが著しかった。趙軍は、楚軍が決戦した頃まさに崩壊寸前であった。張耳は、数十日間続いた絶望的な籠城戦によって、身心共に尽き果てる間際となっていた。
「もはや上将軍のお働きには、賞賛の言葉すら見当たりませぬ、、、」
張耳は、涙を流して感謝した。
項羽は、膝を付いて老将の忍耐をねぎらった。
周囲の将兵の間から、感激のすすり泣きが漏れた。
そこに、一人の将軍が駆け寄って来た。
陳餘が、明るい調子で声を掛けた。
「義兄!、、、何とか、勝てましたな。」
しかし、張耳は彼の姿を見て、にわかに目を瞠(いか)らせた。
「義兄、、、?」
彼は、怒りにむっと体を上げた。
それから彼は、この大将軍の地位にある男を一挙に口汚く罵った。
「― お前に義兄などと、もう言われたくもないわ!、、、張黶と陳澤をあたら死なせおって、よくぞのめのめと俺の前に生きて顔を出したものよ!去れ、去れっ!」
陳餘は、張耳の罵倒を受けて、眉をひそめた。
「それがしが悪いのでは、ござらん!張黶と陳澤が、死に急いだまでのことです!両名があまりにも戦って死を賭けよと申すので、試みに兵を与えてやったまでのこと、、、勝算も無いのに急いで戦うのは、それがしの道ではござらぬ!」
張耳は、彼の言葉を聞いて、さらに怒りを強めた。
「よくそのような言葉が吐けるものよ、混帳(ばかもん)!」
「な、何を申されるかっ!許されぬ!」
突然に、口論が始まってしまった。
「両名とも、やめんか!」
項羽は、二人に一喝を食らわせた。
二人は、項羽の大声に、慌ててひれ伏した。
項羽は、言った。
「秦軍は、まだ生き残っている。反秦の諸将が、対立している場合ではない。今後、軍中において争論は一切許さぬ!」
そう言い残して、彼は城内に歩き去った。
陳餘は、その場を退散せざるを得なかった。
彼は、満座の前で立場を失った。
自分の陣中に戻った彼は、周囲に不満をぶちまけた。
「― 私は、悪くない!悪くないのだっ!」
彼は、自分の体面に傷が付いてしまったことに、敏感に打ちふるえた。彼は、他人から自分が批判されることに、我慢がならなかった。それで、長年の盟友であった張耳にすら、すでに怒りをたぎらせようとしていた。
「項羽などは、暴勇がたまたま結果を出しただけのことではないか!それを、孺子(こぞう)のくせして年長者に怒鳴りつけるとは。礼儀知らずめが、礼儀を知らずして、人の上に立てるかっ!、、、ええい、誰もが愚者だ、愚者ばかりだっ!」
陳餘の怒りは、収まるところがなかった。
「― 大将軍。しかし、項羽が勝利した現実は、動きません。項羽が、これから諸国の上に立つことになるのです。拒んでも、どうにもなりませんぞ。」
怒る陳餘に、声を掛ける者がいた。
「― 蒯通か、、、」
以前に張耳と陳餘を助けて動いた蒯通は、いま陳餘と共に趙軍にいた。
蒯通は、陳餘に言った。
「このままでは、あなたは見捨てられるばかりですぞ。大将軍も、これから何か功績を立てられよ。」
陳餘は、答えに詰まった。
「しかし、、、しかし、それは難しい。私はもとより君子であって、暴勇を奮う者どもの真似をすることはできない。」
蒯通は、言った。
「― 秦軍を倒すためには、戦う以外にも功績を挙げる機会がありましょう?」
陳餘は、こう言われても返す言葉がなかった。もとより彼は、奇策を出すこともできる人物ではなかった。
「ううむ、、、あるのだろうか?」
蒯通は、疑う陳餘に、言った。
「― 秦は、綻びようとしとおります。それがしの出番が、やがて現れましょう。大将軍はそれがしの策を、よろしく受け取られよ。」
そう言って、蒯通は拝礼した。

          

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第五章 楚滅秦の章


           
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第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
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第十章 垓下の章



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