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十六 覇王誕生(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

呂馬童が向かった先に見えたのは、蘇角将軍の陣。

はるか後方で分厚く守備されていた、そのまた向うであった。
しかし、今の彼には項羽将軍の霊気が移っていた。彼は、馬を駆けさせた。無人の野を往くかのように、大駆けした。すると、いつしか敵将の陣が慌て出した。すでに、将にとって危険なほどに、接近していたのであった。
「いたかっ、敵将!」
呂馬童は、華麗に彩色された甲(よろい)を纏った秦将を見据えた。秦将は狼狽して、急いで配下に馬に乗せられて逃げた。
彼は、馬を疾駆させた。その俊足に、敵の攻撃は全て無駄に空を切った。
呂馬童は、馬からぐうん!と腕を伸ばした。
腕の中に、秦将が捕えられた。
呂馬童は、ふん!と腕に力を入れた。
蘇角将軍は、首の根をぎゅわ!と締められて、一撃で息絶えた。
「秦将、討ち取ったり―!」
呂馬童は、あらん限りの大声で叫んだ。
こうして、まず秦将が一人討ち取られた。
項羽は、王離将軍の陣に狙いを定めていた。
「来たっ!」
「ひいいっ!」
前代未聞の猛将が襲って来たとき、秦兵は恐怖におびえた。
彼は、馬上から長大な戈(か)を振り回して、突進した。手綱すら持たずに、両の足で馬の胴を挟み付けただけで両手の武器と馬とを自由に操っていた。常人には誰も真似できない、神(しん)に入った武術であった。
「怯(ひる)むな!ただの一騎だ!全兵、密集せよ!密集して、錦繍の将を討ち取れ!、、、もし討たねば、全員を罰するぞ!」
王離は、叱咤した。
さすがに、名将王翦の孫であった。章邯からは祖父とは比較にならぬ凡才であると見くびられていたが、この大事な時に将として何をなすべきかの心掛けだけは、忘れることがなかった。
項羽の前面に、密集して戈を突き出す秦兵の集団が作られた。何列にも渡り、刃の林が切り立った。時は正午を過ぎ、今日は汗ばむかの陽光が戦場を支配していた。午后の光に、真新しい金属の表面がきらきらと光っていた。
「― ならば!」
項羽は、そのまま馬を走らせて行った。
このまま進めば、馬は待ち構える刃に串刺しとなるであろう。
馬は、今にも敵兵の中に跳び込んでいきそうであった。
兵たちは、戈を構えた。
しかし、その時飛んだのは、馬ではなかった。
項羽が、馬の背から大きく跳躍した。
一瞬のうちに前の何列かの兵の頭上を飛び越え、着地したのは敵兵の一人の頭の上であった。彼は、兵の頭を踏み台として蹴り飛ばした。蹴られた兵は頭を砕かれ、体は前列の兵のところに飛び込んで行った。
再び跳び上がった先に、敵の騎兵がいた。彼は、馬上の兵に空中から一蹴を食らわせ、馬の主に取って代わった。騎兵もまた、遠くに吹き飛んでいった。信じがたい、身体能力であった。
兵の壁を通り抜けた項羽は、新たに得た馬を一散に走らせた。
「秦将!命はもらった!」
「う、、、嘘だ!」
項羽は、ついに恐慌を起こして逃げようとした王離に、馬を突撃させていった。
たちまちに追い付き、猿臂を将の襟首にぐいと掛けた。
将は、釣り上げられてばたばたともがいた。
やがて、鎧に首を締められて、気を失った。
項羽は、すかさず戦場の平原全土に、己の大音声を響き渡らせた。
「聞けーい!秦の敵将は、ここに討ち取ったり!」
彼がひとたび大声を出せば、広大な彭城の城市全体にまで声を届かせることができた。
このときの項羽の声は、自然の作る雷鳴にも似た強暴な威力であった。
項羽は、王離将軍の体を馬上で高々と持ち上げ、陽天の下にかざした。
戦場は、静まり返った。
その直後、巨大な歓声と悲鳴が同時に沸き起こった。
秦の兵は、指揮官が討たれたことを知らされた。
秦軍の組織は、崩壊していった。
無敵の秦軍は、ここに戦えないただの肉塊の柱に変貌した。
そこに、項羽を信じて戦った楚兵たちが、勝利の勇躍をもって無限の殺戮を始めた。
「殺せ!あの将も!」
江東の猛虎たちが、残された将の渉間を十重二十重に囲んだ。
秦兵は、束になって跳ね飛ばされていった。
渉間は、驚愕して物見台の上に攀(よ)じ登った。
そこが、彼の進んだ最後の場所であった。
「― 火を点けろ!火!」
木組みの台の下に、火が点けられた。
火は、たちまちに上へ上へと燃え広がっていった。
「こんな馬鹿な戦が、あってなろうか!」
渉間は、炎の中で焼け死んだ。

「― 夢ではないか?」
章邯は、眼下に展開されるみじめな敗戦に、目を疑った。
三人の将軍を、一日で全て失った。
中国の軍隊に、真に欠けていたもの。
それは、各人が奮い立って、国のため将のために命の限り戦うことであった。
項羽が、彼の兵に奇蹟を起こした。
このとき、秦軍の数の優位も、兵卒の管理法の洗練も、全てが覆された。
賞の利得と罰の恐怖を法として磨き上げた秦軍は、ここに全く新しい質の兵によって、突き崩されることとなった。
「― だめだ、退け!退け!」
章邯は、もはや残余の軍を退却させるより他はなかった。
これまでの彼の軍には決してなかった混乱が、この退却では起った。
秦軍は、もはや鉅鹿の包囲を続けることができず、南に退いていった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章