«« ”十五 変の変(2)” | メインページ | ”十六 覇王誕生(2) ”»»


十六 覇王誕生(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

駆け付けたのは、当陽君黥布の軍であった。

黥布配下の南楚の精鋭たちは、項羽の江東軍に次いで最も勇猛な部隊であった。
黥布の軍は、秦軍を横から包まんとして、ここより離れた戦場で敵に当っていた。
それが、上将軍危しという報を受け取って、あらん限りの全速力をもって救援に来たのであった。
「上将軍を救えっ、者ども!」
黥布の大号令によって、猛者どもが包囲の群れに切り込んだ。
さすがに、黥布は将の器であった。
彼は、包囲網が乱れていることを読み取って、最も崩れ易い一角を選んで突入させた。
陳平の奇策によって混乱した秦兵は、今また強烈な突入を食らって、一挙にどうと割れた。
「好機!」
項羽が、この隙を逃すわけがなかった。
彼は江東兵どもを率いて、包囲網を内から食い破った。
包囲の兵は、ついに乱れ破られた。
やがて他の楚軍も駆け付け、右も左も分からぬ大乱戦となった。
黥布軍の中には、郎中の韓信の姿があった。
彼は、昨晩小楽と別れた後で、楚軍に欠けていることを為しに行ったのであった。
(― 今日の戦は、おそらく乱戦となろう。)
韓信は、思った。
(乱戦では、より多くの理を残した側が勝つ。上将軍は、自ら前線に立とうとしている。だが全体の戦況を察知し、敵の意図をいち早く悟って手を打つ立場の者が、我が軍には必ずいなければならない。そして、その者は―)
私しか、いない。
そう韓信は思い、独り今日の戦況全体が見通せる土地を求めて、馬を走らせた。
韓信が朝になって立ったのは、戦場の近辺で最適の土地であった。
そこは、敵軍の一陣地であった。
すでに、秦軍は戦場の近辺の目ぼしい高地を占拠し終えていた。兵法の、基本中の基本であった。韓信に残された方法は、敵陣に潜入するのみであった。
韓信は、秦軍のふりをしながら、眼下の戦況を見た。
(私が、章邯ならば―)
彼の目に、猛然と渉間将軍の部隊に突進する江東軍が見えた。
明らかに、江東軍が優勢であった。時を置かず、この方面の秦軍は敗れるであろう。
江東軍の中に、縦横に馬を走らせて叱咤する将の姿が、はっきりと見て取れた。
(前線で駆け回るあの上将軍に目掛けて、残った王離・蘇角両将軍の部隊を―)
そう思ったとき、伝令の馬が秦軍の陣から駆け下りていった。
(章邯!)
まさに韓信が思い付いたことを、いま敵将が命じたに相違ない。
韓信は、直ちに行動する必要を感じた。
彼は、最強最速の部隊を救援に向かわせなければならなかった。
彼が馬を走らせたのは、黥布軍のところであった。
韓信は、脇目もふらずに黥布のもとに駆け付け、江東軍の正面に向かうように告げた。
「― 合い分かった!」
黥布は、即座に危機を理解して、配下の兵を一挙に転進させたのであった。
もし黥布の救援が一歩遅れていれば、江東軍と項羽はやはり危なかったであろう。
戦場を華やかに駆け回り、兵卒たちを奇蹟のように奮い立たせた上将軍は、こうして陳平と韓信の知に支えられて危機を脱したのであった。
やがて、楚軍の他の部隊も救援に集まって来た。
戦場は、混沌とした大乱戦となった。
兵卒も将も、目の前の敵を倒す以外に何も考える余地がなかった。
「うわあっ!」
小楽は、秦兵の刀にもう少しで斬られるところであった。
秦兵は、後ろから馬に体当たりされて跳ね飛んだ。
馬上にいたのは、韓信であった。
「― 韓郎中!」
小楽は、この恐怖の場で知った顔を認めて、救われた気がした。
韓信は、小楽に言った。
「どうやら、人を斬るのには向いていないようだな、、、私も、お前も。」
それから、彼に言った。
「小楽、俺の馬の手綱を持て。何とか、俺の長剣で敵を防いでやろう。」
韓信は、腰の長剣を抜いた。普段は決して使うことがない、抜かずの長剣であった。小楽は、彼の乗馬を押さえるために、しっかりと手綱を握り締めた。
「おりゃっ!、、、」
韓信は、長剣を寄せて来た敵に向けて、振り下ろした。
このような激しい闘いが、戦場全体で行なわれた。
やがて、優勢劣勢が見え始めた。
楚軍の士気が、秦軍の勢いを押していった。
項羽は、相変わらず縦横に駆け回り、進むたびに敵を蹴散らしていった。
危機を脱した江東軍は、項羽の姿を見ると先刻よりも更に勇躍した。
彼は、並んで馬を進める呂馬童に、言った。
「もはや、勝利は見えた、、、敵将を、討ちに行くぞ!」
呂馬童は、少し前の包囲の中で受けた矢傷などものともせずに、莞爾(にこり)として応じた。
「承知!」
二人は、馬を猛然と駆けさせて、敵将を求めて突進して行った。
一軍の総帥が自分で敵将を討ちに行くなど、項羽以外の誰ができるであろうか。彼は、恐れる敵兵を踏み付けすり抜けて、敵の本陣に肉薄していった。
呂馬童が、叫んだ。
「いるぞ!、、、向うに一人、また向うにも、一人が!」
項羽が、叫んだ。
「― 一挙に、討ち取る!」
呂馬童が、言った。
「あちらは、それがしにお任せを!、、、将軍は、向うの将を討ちたまえ!」
「よし!」
両騎は、狂喜しながら目指す敵に走って行った。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章